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エルトゥールル号殉難将兵が結ぶ真心の絆

エルトゥールル号遭難者慰霊碑(串本町大島)

日本・トルコ友好120周年
エルトゥールル号殉難将兵が結ぶ真心の絆

坂元陽子(明成社編集部、日本・トルコ協会会員)

120年目の串本町

エ号遭難現場

遭難現場となった船甲羅の岩礁

明治23年、日本への親善使節を乗せたトルコ軍艦エルトゥールル号は、帰途台風に遭遇し、和歌山県大島沖で沈没。約600人が命を落としたが、大島の人々の献身的救助と看護によって69人が無事トルコに帰国した。このエルトゥールル号遭難事件から120年を迎える平成22年6月3日、和歌山県串本町で殉難将士追悼式典が行われた。

串本漁港を出港した参加者は、海保巡視船「みなべ」から、沖合に停泊する海自護衛艦「せとゆき」へ移乗。出発に先立ち寬仁親王殿下をお迎えしての栄誉礼が行われた後、遭難海域へと向かった。

「せとゆき」は樫野崎の海を静かに航行しつつ、やがて開式となった。参加者全員の黙祷が捧げられ、セルメット・アタジャンル駐日トルコ大使、武田壽一海自呉地方総監による追悼文の奉上に続いて、寬仁親王殿下、彬子女王殿下が洋上へ献花された後、出席者全員が献花し、海自儀仗隊の弔砲が発せられた。

アタテュルク騎馬像

樫野崎灯台前に設置されたムスタファ・ケマル・アタテュルク騎馬像

午後からは、トルコ大使館から寄贈され、日本財団の支援を受けて樫野崎灯台前に設置されたアタテュルク(トルコ共和国建国の父)騎馬像の除幕式典が行われた。像の高さ4.2メートル、台座部分を含めると6メートルに及ぶ巨大な像が姿を現すと、大きなどよめきが起こった。

威風を湛えたトルコの英雄像は、当初、新潟県柏崎市に建てられたものだが一貫した管理が行われず、新潟中越地震の影響もあり、あろうことか一時は野ざらしで横倒しにされるなど、日本人として洵に申し訳なきゆゆしき事態にあった。関係者の尽力により、修復を経てふさわしい場所を得ることができ、胸をなで下ろした人は多いことだろう。

海上での式典に加え、慰霊碑前で、陸上追悼式典も行われた。

黙祷の後、両国歌の演奏があり、寬仁親王殿下のお言葉を彬子女王殿下が代読された。寬仁親王殿下は、喉頭咽頭癌治療の影響で、発声を補う機器を利用されている。

和歌山県知事、串本町長による追悼文の奏上、献花の後、海自による弔砲が発せられた。また特別に、トルコから色鮮やかな伝統衣装をつけたトルコ軍楽隊メフテルがかけつけ、式典を盛り上げた。最後に、地元小中学生と老人クラブの方々が「トルコ使節艦エルトグルル号追悼歌」を斉唱した。

エ号追悼歌

慰霊碑近くに設置されている地元で歌い継がれているという追悼歌の紹介板。追悼歌は他にもあるようだ。

地元大島小学校では、古くからこの追悼歌を教えており、慰霊碑の清掃活動も行っている。住民も清掃をかかさないため、慰霊碑周辺はいつもきれいに保たれている。

ある日慰霊碑を訪ねたトルコ人が、小雨の中、ゴミを拾う子供を偶然目にして、思わず涙が出たと語っている。

現在の慰霊碑は、昭和12年トルコ政府によって建てられたもので、当初の墓碑が正面に埋め込まれている。駐日トルコ大使、駐在武官は、着任にあたりこの慰霊碑への参拝を欠かさないという。

慰霊祭は、昭和4年、昭和天皇の行幸を仰いで以来行われており、5年毎には皇族方をお迎えして大祭とする。いずれも催行日は艦が遭難した9月16日ではなく、昭和天皇の行幸を仰いだ6月3日を慣例としている。

大祭は例年、雨の日が多いそうだが、120年目のこの日、海は青く波は穏やかで、青空の下、共に紅白を使った両国旗がひときわあざやかに映える1日となった。

※平成22年開催の120周年追悼式典の模様を収めた映像を、平成27年6月、
リニューアル
されたトルコ記念館内で視聴することができた。(平成27年11月追記)

大使の涙

トルコで約20年間勤務した元外交官の本山昭氏は、トルコ紙の取材に答え、次のように

述べている。(Zaman,2010/7/31)

…この(串本町の)慰霊碑に関して、忘れられない思い出があります。海軍司令官としての任務の後、軍を退いたジェラル・エイジオールが、在京トルコ大使館で大使として勤務することになりました。その頃、私は外務省でトルコを管轄する課の調整官でした。

エルトゥールル号の追悼式典に私も参列しました。エルトゥールル号が沈没した海で、日本の軍艦の上で式典が行われ、式典が終わった後、皆艦の中に入りました。

エイジオール大使は、式典の行われた場所で、銅像のように真っ直ぐ立ちすくんでいました。泣いていました。しばらくしてから、

「“軍人は泣かない”と、いつもおっしゃっていましたよね」と私が声をかけると、

「私は軍人ではなく、大使です」とお答えになりました。

エイジオール大使は、トルコからこんなにも遠い場所に、トルコ人殉職者のために慰霊碑がたてられ、こんなにも思いの込もった式典が行われていることに感動した、とお話になられました。

遠く祖国を離れ異国の海に沈んだトルコ殉難将兵のみたまは、一世紀以上の時を経てなお、親善使節の役割を果たし続けている。それを可能ならしめているのは、両国民のメンタリティであり、世界でも傑出した例といえるだろう。

本山氏は続いて、次のように述べている。

1941年に地中海で沈没したレファー号という船がありました。その事故で167人が亡くなりました。

エイジオール大使は、メルシン(地中海に面したトルコ南部の港町)にも串本町にあるような慰霊碑をたてるよう試みる、と言いました。この慰霊碑をたてるため私たちは一緒に取り組みました。そして日本にある慰霊碑の兄妹がメルシンにたてられたのです。

この意味から、レファー号殉職者慰霊碑と日本にあるエルトゥールル号殉職者慰霊碑は、永遠にトルコと日本の友好関係のシンボルとして残るのです。

 

メルシンでの慰霊祭

9月2日、こうした経緯で串本町の慰霊碑と同型の慰霊碑のあるトルコのメルシンでも、「エルトゥールル号百二十年慰霊式典」が開催された。街中いたるところに、日の丸や「トルコにおける日本年」旗が飾られた。式典は、アタテュルク公園内の慰霊碑前で厳かに執り行われた。

日本側から、田中駐トルコ大使、海自の徳丸司令官、「かしま」「やまぎり」「さわゆき」3鑑の艦長と乗員、串本町長、和歌山県知事はじめ多くの県民も参加した。

トルコ側からは、文化大臣はじめトルコ軍関係者、エルトゥールル号の特使オスマン・パシャの孫にあたる方や市民など、総勢数百人が集い盛大な式典となった。

式典のほかにも「エルトゥールル号里帰り展」など、数々の記念行事が行われた。

 

国際親善における皇族の役割

平成2年、このメルシンでの慰霊祭と記念式典に、三笠宮崇仁殿下の代理として、寬仁親王殿下が出席された。

寬仁殿下がゲストブックに署名をすませ、ふと壁を見られると、そこには水と土の入ったフラスコが1つずつ置かれていた。早速質問したところ、「百年前の樫野崎の漁民の人々の心温まる救出活動を永遠に忘れない為に、樫野崎の水と土を安置しているのです!」という返事であった。寬仁殿下は、「高校球児が甲子園球場の土を記念に持ち帰ろうとする」事を連想され、「民間外交の究極の成功例がこのフラスコ瓶の中にある!」と感激したことを回想されている。

日本とトルコの友好親善において、三笠宮殿下、寛仁親王殿下の果たされている役割は非常に大きい。

日本・トルコ協会は、昭和4年、高松宮殿下が総裁に就任されている。現在、総会や記念行事には、三笠宮殿下(現名誉総裁)、同妃殿下、寬仁親王殿下(総裁)がご臨席になり、親しくお言葉をお述べになる。参加者と共に時間を過ごされ、大使はじめ関係者となごやかに歓談される。トルコの人々に日本国としての最上の敬意を体現されている。皇族方のご存在そのものが至上のものであり、国と国の友好関係を、いかに揺るぎないものにされているかを間近に拝し、実感することができた。

両陛下と比べるのは畏れ多いことであるけれども、皇族方が果たされている具体性なご活動や重要性を、国民はあまりにも知らないのではないか。

平成19年、日本で開催された「トプカプ宮殿の至宝展」に、悠仁親王殿下のご誕生に祝意を示そうと、門外不出の「金のゆりかご」が特別出品された。トプカプ宮殿美術館のオルタイル館長は、「プリンスが生まれ、日本の国民が喜んでいる。トルコの日本に対する友好の気持ちの大きさを示したい」と出品を決断した。こうしたトルコからの特別な祝意を、国民は十分受けとめているだろうか。

 

素より薬価、施術料を請求するの念なく

串本町の田嶋町長は、最近見つかった新たな資料を紹介している。遭難者の治療にあたった医師3名が認めたもので、当時のカルテと一緒にあったものだという。

「明治二十三年九月二二日

本日、閣下より薬価 施術料の清算書を調成して進達すべき旨の通牒を本村役場より得たり。
然れども 不肖 素より薬価 施術料を請求するの念なく、
唯唯 負傷者の惨憺を憫察し、ひたすら救助一途の惻隠心より拮椐 従事せし事 故 其の薬価 治術料は該遭難者へ義捐致し度 候間 此の段 宜しく御取り計らい下さりたく候也。」

文面にみられる惻隠の情は、日本人の精神そのものであり、世界の国々のリーダーの中には、今なお、このような日本人の高い倫理観と武士道精神を自分達が希求する精神と位置づけているのだという。

 

24年後の真実

エルトゥールル号事件以上に、日本人として記憶しなくてはならないのは、昭和60年、空爆の始まったテヘランに取り残され、絶望の淵に立たされた日本人215人が、トルコ航空機によって助けられたことである。

当時、私は中学生であったけれども、残された日本人はどうなってしまうのだろうかとハラハラしたことを、今は、はっきりと思い出す。「陸路で山賊に襲われる」記事の衝撃は大きく、子供ながらに当事者の不安を共有していた。

それでも、24年の時が過ぎ、そんな事は全く忘れてしまい、思い出すことはなかった。

聞けば、トルコ航空はただ助けてくれたのではなかった。オザル首相は、撃墜のおそれや政治的なリスクを引き受けて、他国民の救出を決断した。救援機はDC10。トルコ航空が所有するもっとも大きな機体を、日本人の為にやりくりしてくれたのだ。代わりに600人ものトルコ人が、治安の悪い陸路で3日もかかってイランから脱出していたことに、どれだけの日本人が思いを致すことができるだろうか。

トルコ機のパイロットも乗務員も、皆この任務を誇りに思っていた。それに「人助けは進んで行うものであり、当然のことをしたまで」というマインドは、エルトゥールル号の遭難者を救助した大島の島民たちと同じだったのである。

トルコ航空による救出事件は、エルトゥールル号事件とは無関係と主張する人もいるが、心情を辿ると全くの一致を見る。やはりエルトゥールル号事件に遡るとしかいいようがないのである。

 

百年後の日本人に

とっさの行動は、理屈よりも精神や価値観が働くものだ。社会の受け止め方をみれば、その精神とは当事者固有のものだけではなく、熟成されたエートスが作用していることに気付く。

トルコ世界一の親日国この時代にゆきわたり共有されていた精神を、百年後の日本人の心に宿すことができるだろうか。その為に、次世代に伝える努力は欠かせない。折に触れ繰り返し語り継ぐべき記憶なのである。

2010年、一年間にわたり日本・トルコ友好百二十周年記念事業が両国各地で行われた。年初出版した明成社のトルコ 世界一の親日国』(森永堯/著)は、幾ばくでもその役割を果たしえたのではないかと思っている。

串本町では予算を計上し、日本・トルコ合作映画の制作を始めている。海底に沈むエルトゥールル号遺品引き揚げプロジェクトは、その役割を買って出たトルコ人と、地元ダイバーの人たちの協力によって進められた。

まごころから動き出した人々は、自らにできることを問い、伝えようと努力している。トルコ航空機で助けられた日本人乗客の中には、トルコ地震の際に義捐金を贈ったり、串本のご先祖のおかげと、串本町へふるさと納税を申し出た人もいる。

 

カマン・カレホユック遺跡

7月10日、トルコ共和国アナトリア高原に、カマン・カレホユック考古学博物館がオープンした。この日、式典に列席した人は1000人以上、周辺に集った人は約3000人。チャウルカン村始まって以来の大賑わいという。大村所長によると、地元カマンの農民や若者が総出で式典運営に参加しており、地元と一体となって取り組んできた研究所のスタイルが反映されているそうだ。

日本から、寬仁親王殿下、彬子女王殿下をはじめ、阿部中近東文化センター所長、田中大使など百名以上、トルコ側は、ギュナイ文化大臣はじめ多くの要人が参列し、オープンを祝った。大統領府オーケストラの記念演奏の後、テープカットとなった。この時、両殿下と大臣の周りには、制御できそうにもない数のマスコミが集まっていた。その後1ヶ月で7千人が博物館を訪ねてきたという。

カマンの町には、Prens Mikasa Caddesi(三笠宮通り)がある。1986年、カマン・カレホユック遺跡の鍬入れ式にご訪問になるなど、発掘調査に尽力されている三笠宮殿下に感謝の意を込め名づけられたもので、住民の生活の中心になっている唯一のメインストリートである。

以前、カマンで式典が開かれた時のこと。カマンは土漠の高原で強風が吹き付ける。参加者はとても立っていられなかったそうだ。そんな中、三笠宮殿下は吹きすさぶ砂塵をものともされず直立不動を保たれており、そのお姿に敬服しきりだったと聞いた。

隣接する「三笠宮公園」は、ヨーロッパでも有数の広さを誇る日本庭園で、年間2万人の観光客が訪れる。

ヒッタイトの謎を秘めたカマン・カレホユック遺跡は、20年前から中近東文化センターアナトリア考古学研究所の大村幸弘所長を中心に発掘調査が進められ、アナトリア考古学における「暗黒時代(Dark Age)」の解明に挑もうとしている。

発掘成果は、発掘権を取得した者が占有するのが通例で、発掘隊が何を重視するかによって、研究価値がないとみなせば、重要な発掘物も打ち捨てられてしまう例もあるという。現地にしてみれば、文化財の収奪行為と見られるケースも往々にしてあるそうだ。

カマン・カレホユック考古学研究所は、現地に根ざした運営を行い、価値ある遺跡を自分達だけのものにするのではなく、現地で分析し、保管・展示することで、他の研究者も広く利用できるようにし、世界中の研究者が集い、議論していくことで研究成果を高め合おうとしている。

歴史を変えるこの事業に賛同された寬仁親王殿下は、10年にわたって建設募金活動を推進された。

「発掘はまだまだ百年は続く」そうである。寬仁殿下から渡された金一封を、大村氏らは飲んでしまわず、地元の人々の奨学資金「三笠スカラシップ」とした。その心意気に、今後も国民の支援と声援を贈りたい。

 

トルコ 世界一の親日国 海難1890