日本の歴史・伝統文化など「日本人の誇り」を甦らせる書籍の出版をしています

台湾独立の胎動

「新台湾と日本」取材班

当社では、世界で最も親日的な国と言われている台湾(中華民国)の様子を記録に留め、将来の日台友好を促進すべく、映画『新台湾と日本』の制作を決定した。
平成12年6月末より現地を訪れ、中華民国の新総統陳水扁氏、前総統李登輝氏への単独インタビュー等、約1カ月間台湾各地の取材を行ったが、未だ日本人が余り知ることのなかった台湾の現実を数多く知ることができた。

「以徳報怨」と「台湾人の悲哀」

まず我々が、台湾を語る上で知らなければならないと感じられたのは、「台湾人の悲哀」についてである。この言葉は、平成12年7月20日、淡水にあるオフィスで行われた李登輝前総統のインタビューの冒頭で最も力を込めて使われた言葉でもあった。李登輝氏は、12年間の総統時代を振り返り次のように述べられた。

「司馬遼太郎さんが、1993〜94年に台湾に来られました。いろんなことを話しましたが、“場所の悲哀”、“台湾人に生まれた悲哀”というようなことを言っておられました。
しかし、(私の在任中の)この12年間に、台湾の人々は自分の国は自分で治めるんだ、外来の政権に治められるのではなくて、自分で自分のことはやろうじゃないか、という“台湾人の幸福”を覚えるようになったと思います」

司馬遼太郎氏の「街道をゆく」シリーズの40番目に『台湾紀行』という本がある。その中で司馬氏が、李登輝総統と対談している一章があるが、そのテーマが「場所の悲哀」である。戦後台湾の歴史を知らない日本人にとって「場所の悲哀」「台湾人に生まれた悲哀」との言葉はなかなか実感がわかない。しかし、この言葉こそは、台湾問題を理解する上で最も基本的かつ重要なキーワードなのである。

蒋介石総統の「以徳報怨」

台湾(中華民国)は、鹿児島から約1000㎞、沖縄の西南端の与那国島からは僅か80㎞。その面積は3万6千平方㎞で、日本の九州よりやや小さい。気温は高温多湿の亜熱帯。人口は2250万人である。近年、経済的な躍進は目覚ましく、1人当たりのGNPは1万ドルを超え、外貨準備高も現在世界第3位である。中華民国は、今や「中進国」から「先進国」への仲間入りを果たしつつあると言えよう。

戦後の日本でこの国のことが話題になるのは、大抵蒋介石総統への「恩義」の問題についてであった。

日本が戦争に敗れた時、中国大陸には尚百万人を超える日本軍(支那派遣軍)が残されていた。その際、中華民国の蒋介石総統は、重慶からのラジオ放送で、「旧悪を思わず人に善をなす」(『論語』の一説)と訴え、日本軍の復員を迅速に行ってくれたというのである。
満州でソ連軍が、日本兵を片っ端から捕らえて、極寒のシベリアへ送り、何年も強制労働や思想改造を行ったことと比較するならば、蒋介石の措置は余りにも寛大であると思われた。 このため、戦後の日本では、蒋介石の斯かる行為を「以徳報怨」(徳ヲ以テ怨ミニ報イル)といって称賛し、蒋介石の銅像や記念碑(註1)をあちこちに建てた。

(註1)蒋介石総統の銅像は、神奈川県足柄下郡箱根町等に、記念碑は千葉県夷隅郡岬町の「以徳報怨之碑」、群馬県前橋市の「謝謝重恩之碑」等がある。

その後、蒋介石の国民党は毛沢東の共産党との内戦に敗れて、台湾へ追い落とされた。共産党側は大陸に中華人民共和国を新たに建国し、蒋介石を追撃すべく「台湾解放」を唱えた。一方、国民党側は「大陸反攻」をスローガンに台湾全島を要塞化、台湾海峡を挟んで大陸との「内戦」状態が最近まで続いてきたのであった。実に、四十余年もの間中国大陸の領有を主張する二つの政府が存在し続けたのである。

当然、日本にはどちらを正当な中国政府と認めるかという課題が突き付けられた。日本政府は、当初台湾の中華民国政府と国交を結んでいた。しかし、1972年9月29日に田中角栄内閣は大陸の中華人民共和国を承認し、同時に中華民国との正式な国交は途絶えた。このため、今でも台湾問題といえば、蒋介石総統への「忘恩」の話として語られることが多いのである。

二.二八事件

しかし、実際の台湾問題は、そのような蒋介石総統への「恩義」だけの問題では割り切れない複雑な面がある。
日本人が恩義を感じている蒋介石は、台湾人にとっては逆に憎むべき弾圧者でもあったのである。

中華民国(台湾)の国民は大まかに三つに分類することができる。蒋介石の国民党と共に大陸から渡って来た外省人、十七世紀以降台湾に住んでいた本省人(台湾人)、そして更にそれ以前から台湾へ移り住んでいたマレー・ポリネシア系の九つの部族からなる先住民(高砂族)である。

外省人と本省人は共に漢民族系で、我々日本人から見ても外見上の見分けはつかないが、人口比で僅か13%でしかない外省人は、エリートとして他の87%(漢族系85%、マレー・ポリネシア系2%)の台湾人の上に君臨し続けてきた。

外省人が本省人(台湾人)を支配するようになった経過をもう少し見てみよう。そもそも、中華民国の統治する以前の台湾は、日本によって統治されていた。1895年、日清戦争の講和条約によって台湾は日本領土となる。

李登輝氏は、日本時代について次のように述べられている。

「日本時代に入りまして、台湾の近代化の基礎はつくられました。
まず、土地の制度を整備した。それは何を意味するかというと、台湾においては大地主と小地主があってその下に小作人がいた。こんなことをやっておったら土地の売買は全然不可能です。資本主義化するための台湾の基礎をつくらなければならない。
その次にやったのは度量衡の整備。いろんな場所に行くと重さを測るものが違う。重さが違えば容器も違うし、そういう度量衡整備をやった。
第三は貨幣制度を作った。貨幣を台湾銀行発行の紙幣に一定させた。
この三つは本当に基本ですよ。そこから建設が始められる。鉄道をつくる。通信を始める。それから蓬莱米をつくる。蓬莱米とは日本品種の米。ドイツから肥料を入れてやる。お砂糖の会社の発展。いろんな事業が興った。
それから教育問題。普遍的に教育の推進をやった。それから衛生、医療設備の整備。この50年、もし台湾が日本の植民地でなかったら、今の海南島より大変だったと邱永漢さんは言いますけれども、これは全くしかりなんですよ」

大日本帝国の版図となった台湾は、本土からの投資によって内地と同様に道路、鉄道、港湾設備等の建設が進められ、電気、ガス、上下水道等が整備され、現地人が使用するための学校や病院の建設もすすめられた。教育が普及し、衛生観念や遵法精神が強く確立された。

「日本時代における植民地政策というのは、日本から見れば日本の国がどれだけの仕事ができるかを示すチャンスでした。日本は、台湾のために本当に奮闘したわけです」

李登輝氏の日本統治時代への評価は高い。
実際、当時の台湾のインフラの整備度や台湾人民の民度の高さは世界有数であったろう。 しかし、日本の統治も決して完全無欠であったわけではない。台湾島民については、進学や官吏の就業について本土出身者と比べて不利な点もあり、エリート層には不満も存在していた。このため、昭和20年に日本が敗戦し、中華民国が台湾を統治することが決まると、多くの台湾人が光復(祖国復帰)を喜んだのであった。

台湾で長く高級中学(高校)の教員を務められた蔡徳本氏は、光復の時の感慨を次のように述べられる。

「当時、嬉しくなかった人は恐らく一人もいないでしょう。日本人は戦争後の不安がありますでしょう。で、私たちには戦後の不安はなかったわけなんです。まあ、これで、自分の祖国に戻ったんだと、そういうナイーブな喜びしかなかったんですよ」

台湾人は、祖国中華民国の軍隊が来るまでの間、自治組織をつくり、台湾島内のあらゆる機能を日本時代と同様に動かした。
1962年に来日し、以降今日まで日本で暮らしている工学博士の連根藤氏は、当時を次のように振りかえる。

「日本の警察は、終戦の後は遠慮して何にもやらなくなったので、台湾人の自警団が出来ました。20歳代位の人が多かったです。提灯を持って何人かで組みになって、台北市から永和市へ行く道に変な人がいないか巡回するんです。治安はよく確保されました」

当時の台湾の治安は、終戦のどさくさの時期であるにもかかわらず、極めて良好に確保された。また、道路はチリ一つないほどきれいに清掃され、鉄道等の交通機関も以前と全く変わらず定刻通りに運行された。人々は、祖国の軍隊を迎える喜びに満ち溢れていたのである。

人々は手製の「晴天白日旗」(中華民国の旗)を持って基隆港へ、祖国の軍隊を出迎えに向かった。しかし、期待は間もなく裏切られることとなる。
前出の蔡徳本氏は述べられる。

「その軍隊がね、敗残兵みたいな軍隊だったんですよ。規律も何もないんですよ。それから来た官吏はもう汚職ばかりでね、能のない人ばっかりだったんですよ。日本人とは全く違います」

船が港に横付けされ、降りてきた中国軍兵士は肩に棒を担ぎ、その棒には、傘、敷布団、料理鍋、コップなどがぶら下げられていた。靴を履かずに裸足の者も多かった。一時間もしないうちに兵士達は町に散って行き、気に入った店頭の商品を勝手に持ち去り、或いは大掛かりな略奪を行った。人通りの少ない場所であれば強姦は半ば公然と行われた。
また、国民党の官吏たちは、工場施設や倉庫の在庫を次々と接収し、食料、機械類等を大陸の市場で競売にかけるべく、ジャンク船で毎日運び出した。台湾の物価は高騰し、台湾人はその日の生活にも窮するようになった。

人々は、大陸の中国人と台湾人の価値観の違いに戸惑った、という。衛生観念、責任感、行政能力、何を取っても台湾人、日本人とは余りにかけ離れていたのである。しかも、国民党側は、台湾人を、「日本人による奴隷化政策で堕落している」とし、同胞としてではなく征服者として君臨したのであった。
高雄市にある東方工商専科学校の許国雄校長は次のように述べている。

「台湾人は、それまで日本の植民地の国民でした。大東亜戦争後、自分の祖国、中華民国の政府が来たんですけど、その政治が日本時代の政治より悪いんですよ。それで台湾の人はがっかりしました。その時に起きたのが二・二八事件です」

1947年2月27日、専売局の役人が無許可でタバコを販売していた老婆に激しい暴行を加えた事件を契機に、台湾民衆は終に立ち上がった。
当時、台湾の生産者は生産品を安価で専売局等の公営機関へ売ることを義務づけられており、高級官吏はこれらを高価で転売し私腹を肥やしていたのである。非武装の民衆デモに対し、陳儀行政長官は機銃掃射をもって報いたが、抗議行動はたちまち台湾全土へと波及し、陳儀長官の更迭を含む政治改革を蒋介石総統へ要求した。

しかし、当時南京にあった蒋介石総統は、直ちに大陸から援軍を送ってこれを武力で鎮圧した。上陸した第21師団と憲兵隊は無差別に市民に発砲しながら、台湾全土を徹底的に制圧したのである。以降、台湾には戒厳令が敷かれ、恐怖政治の時代が約四十年も続くこととなる。

台湾人総統の誕生

そのような中、李登輝氏は、本省人(台湾人)として初めての中華民国総統となり、政治の頂点を極めた。
李登輝氏の総統就任は、半ば偶然に起こった。蒋介石の死後、多少の経緯があって息子の蒋経国が総統職を継いだが、その下で副総統を務めていたのが、李登輝氏であった。蒋経国は、台湾農業振興のため、農業経済学の権威である李登輝氏を副総統に起用したのである。そして、1988年1月に蒋経国が病死すると憲法第49条の規定によって李登輝副総統は自動的に総統に就任した。以降、李登輝氏は、クーデターを含む外省人グループの様々な陰謀と国民党内で闘いながら、12年間に渡って総統職を守り続けて来たのであった。
李登輝氏は述べられる。

「私の12年でやったことは、大陸との関係をはっきりさせたことです。
まず、大陸との内戦状態を終結させました。大陸は中華人民共和国が有効に統治していることを宣言しました。
こちら(台湾、膨湖諸島、金門島、馬祖島)は、台湾中華民国。特殊な国と国との関係にあると言いました。二国論です」

李登輝氏の「二国論」(註2)は、大陸の「台湾解放」の大義名分をなくし、中華民国の国際的地位を向上させるためのものであると言われている。しかし、それは同時に、「大陸反攻」のスローガンを降ろし内戦状態の終結を宣言することによって、独裁体制を正当化してきた「動員戡乱時期」臨時条款を修正する目的もあった。

(註2)李登輝氏の「二国論」には、大陸が将来「民主化」したら統一するという条件がついている。この条件は、大陸を刺激し戦争を招く危険性を防ぐために、便宜的に付けられたという見方が一般的である。

李登輝氏は、万年国会議員の廃止や総統の直接選挙制度の導入等次々と改革を推進し、かつて、一握りの外省人だけのものであった台湾の政治を、今や全ての国民のものとしつつある。
前出の許国雄氏は述べられる。

「祖国の兵隊が台湾の人々を無差別的に虐殺したのがこの二・二八事件です。当時高雄市の市参議員(市会議員)であった私の父も撃たれて死にました。もし、李登輝先生が総統にならなければ、二・二八事件は未だに口にすることさえ恐れなければならない時代でした」

緯詮電子股分有限公司董事長の蔡焜燦氏も、次のように述べられている。

「日本の方が蒋介石さんに対して、今でもご恩感じてる。私は素晴らしい事だと思います。その点、日本の方は律義なんです。その素晴らしい蒋介石さんが、世界でも類のない戒厳令40年くらい敷きました。
その間の独裁政治たるや凄いです。私が皇帝であるような感じで台湾を統治しました。台湾は、李登輝さんが総統になるまで民主国家ではなかったんです。

待ち続けた祖国に裏切られた「台湾人の悲哀」について、日本人は余りにも無知であるかもしれない。
1995年、李登輝総統は、二・二八事件についての報告書をまとめさせ、国家元首として犠牲者の遺族に正式に謝罪した。

台湾中華民国

1999年7月に出された李登輝総統の「二国論」は、世界中に大きな衝撃を与えた。特に、大陸の中国共産党は敏感に反応し、機会あるごとにこれを批判した。台湾側が、大陸とは別の国家であると宣言すると、台湾を回収する大義名分がなくなるからである。

中国共産党は、かつて戦火を交えた反共主義の外省人グループとも手を結び、何としてでも台湾をつなぎ止めたいと考えている。前回の総統選挙でも大陸側は、武力行使をほのめかし、外省人である宗楚瑜候補以外への投票を激しく牽制した。
しかし、人々は新総統に台湾出身である陳水扁氏を選出した。陳水扁氏は李登輝路線の最も忠実な継承者と見られていたからである。
李登輝氏は力強く述べられた。

「日本政府は中華人民共和国と国交関係を結んでいる。だからと言って台湾は国でないということはない。国交なしでも承認しようがしまいが台湾中華民国は国家として存在している」

「台湾中華民国」は、最近李登輝氏がこの国のことを指す時に好んで使われる言葉である。
外国が承認しようがしまいが、今台湾人は、この国を自分自身のものとして着実に建設しつつある。「台湾人の悲哀」から「台湾人の幸福」へ、との李登輝氏の言葉の意味は正にここにあるのである。

李登輝を含め「65歳以上の人は全て”親日”」と言われるこの国の将来に対して、日本は決して無関心であってはなるまい。


台湾独立と日本精神

65歳以上の台湾人はみんな親日

「65歳以上の台湾人はみんな親日ですよ」

台北の日本料理店で、刺し身を食べながら楊克智氏がそうおっしゃった。
台湾に日本料理店は多い。これらは日本企業の駐在員のためのものではなく、多くは台湾人が利用するための店であるという。楊氏の説明によれば、「台湾風日本料理」である。 基督復臨安息日会の長老・楊克智氏は、作家の故司馬遼太郎氏の友人である。楊氏は、第二次世界大戦末期に大阪外語学校(現大阪外大)で司馬氏と同窓であり、司馬氏の『台湾紀行』(朝日文庫)にもしばしば登場する。
氏にお会いした最大の目的は、陳水扁総統とのインタビューを確実に実現するためである。既に、我々は台湾の駐日代表処へも取材の申請を行い、また『台湾紀行』に謎の案内人「老台北」として登場される蔡焜燦氏にもその仲介を依頼していた。しかし、6月末の時点では、取材実現のはっきりした感触をまだ得ていなかったのである。
我々の話をしばらく黙って聞いておられた楊氏は、「努力はするが、余り期待はしないように」と返事をされ、続いて次のような話をされた。

「台湾は、日本にとって地政学上とても重要なところです。ここを、他の国に押さえられたら、日本への物資の輸送は止まってしまいますよ。そのことを日本の人たちにわかってほしいんです。
私たちは、別に日本人に大陸の悪口を言ってくれというのではないんですよ。台湾を一人前に扱ってほしいんです」

誠実で物静かな雰囲気の楊氏が、急に堰を切ったように能弁になられた。とても流暢な日本語で、次々と話が展開する。今度は我々が黙って聞く番である。

「今、65歳以上の台湾人はすべて親日です。でも、それ以降の世代は(国民党の)教育のせいでおかしくなっている。もう時間がないですよ。私たちの世代がいなくなった後は本当に手遅れなんです」

楊克智氏の、台湾の現状への憂いと同時に、日本に対する強い思いを感じた。自らの世代には日本との特別な絆があると自負されているのである。一通りの話が終わると元の温和な楊氏に戻っていた。

「いやぁ、気を悪くしたのでしたらすみません。日本の方にはどうしても知って頂きたくて、つい話をしてしまいました。」

日本の敗戦に涙した台湾人

李登輝氏をはじめ、65歳以上の台湾人は、日本統治時代、それも最も苦しい戦争の時代に青春を過ごした人々である。そして、この人々は、その後自らの意思とは全く関わりなく日本国民としての国籍を剥奪され、蒋介石の中華民国へ放り出されたが、今なお親日家として、日本時代への憧憬や日本への期待を強く持ち続けているのである。
多くの台湾人は、昭和20年の終戦を喜んだが、中にはこれを「悔しかった」と言う人もいる。奇美発展文化事業有限公司に勤める石榮堯氏は、その一人である。石氏は、17歳で高雄にあった第61航空廠工員養成所第2期生へ志願し、発動機部へ配属された。工員養成所の学生の身分は軍属であった。

「中学の入学試験があるその前、要するに前年の12月なんですが4年制の工員養成所の募集があります。200名の募集なんですが2000名もの人が応募してくるんです。合格した人は中学校の試験に合格しても中学校には行きません。養成所を卒業すると高校の資格が取れるし、何より国のためになるからです」

当時の中学校と言えば、内地でも難関で進学する人が少なかったが、養成所は中学校よりもはるかに人気が高かったというのである。しかも、石氏はその頃を「一番楽しかった」と言われる。

「養成所の基礎訓練は厳しかったです。目をつぶって鏨を打つ訓練をするんです。当時台湾でも敵の空襲がありましたから、灯火管制の下で作業が出来る技術を身に付けなければなりませんでした。指は血だらけですよ。 食事は、海軍食で朝は底に少ししかご飯がなくて、昼は半分位、夜は山盛りでした。食事については、丁度食べ盛りの頃だったので辛かったですけど、あの時は楽しかったですよ。本当に。 そして、昭和20年の玉音放送を聞いた時には本当に悔しかったです。みんな涙を流しました」

「終戦」を悔やしかったと述懐する台湾人がもう一人いる。葉子成氏である。
現在、旧日本海軍の台湾人軍人軍属でつくる中日海交協会理事長を務める葉氏は、昭和18年、18歳の時に海軍特別志願兵に志願、訓練の後台中航空隊の海軍施設部へ配属された。

「私は海軍に必要な木材、針金、釘、セメントなどの倉庫を管理しておったのです。P38やB29がフィリピンから爆撃に来ていましたが、近くの陣地にいた高射砲隊がこれを攻撃して、B29を撃墜したのを見たことがあります。また、台中航空隊からは特攻隊も出ました。整列して万歳万歳と見送りました。みんな一生懸命で、軍人軍属も同じ訓練を受けて、機会があったら、敵陣に特攻隊として飛行機に乗っていこう、そういう精神でいました。これは、その時の若い者だけではなく、付近の村のおじさんでも“そうか、立派な日本精神だ”と思うような、みんなが持っている気持ちでした」

正に、本土出身の日本人も顔負けの、烈烈たる「日本精神」である。しかし、その葉氏も昭和20年、日本の敗戦に直面する。

「終戦のときは、集合して天皇陛下の放送を聞いて涙を流しました。台湾人もみんな泣きました。今考えてみると当時の時代の精神は立派です」

しかも、葉氏は「祖国復帰」を喜ぶどころか、中国人になんかなりたくなかった、と言われる。

「終戦前に、敵の飛行機が来て撒いたビラに、”中国を台湾に返す”と書いてありましたが、誰も中国人になりたいと思いませんでした。だから、戦後国民党軍が基隆港に来ても私たちは歓迎になんか行きません。台湾で文化協会といって日本の政策を批判していた人達は歓迎に行ったみたいですけど、この人たちはみんな二・二八事件でやられましたよ」

葉氏は、何事もなかったようにサラリと述べられた。

二.二八事件で起き上がった戦地帰り

黄氏は、葉氏と同じ中日海交協會で理事を務めている。
昭和17年、医師になることを志して内地へ行った黄氏は、東京、荻窪の親戚のところから学校へ通った。しかし、正義感の強い黄氏は、軍の仕事をやるべきだと考え、海軍の鉄道部の試験を受けて合格、ここでの訓練の後、海南島の海軍軍事部へ軍属として勤務された。ところがこれにもあきたらず、海軍特別志願兵の募集が始まると今度はこれに志願し、本当の軍人になってしまった。

「600名の応募者の中で僕は合格して、それから横須賀第四陸戦隊に入隊しました。そのときは日本国民として、若い青年はみんな日本の国家のために尽くさなければいけない。
僕は、抜擢されて陸戦隊の猛訓練を受けました。6カ月の猛訓練の後に、第七機動部隊の作戦部隊に配属されました。海南島においては、山の中にシナ軍の遊撃隊が隠れている。それに対して僕らは反遊撃戦、毎日あそこで。昭和20年の最後まで僕らは頑張った。けれど、日本は終戦になってしまいました」

終戦後は、台湾人と日本人は別々に分けられ、日本人は日本へ送還された。黄氏を含む台湾人軍人軍属1600名は中国軍の集中営へ収容された。しかし、ここでの中国人の台湾人に対する処遇はあまりにひどく、黄氏は、海南島から台湾本島へ決死の脱出を決行した。

黄氏が、台中へ戻ってしばらく経った頃、二・二八事件が起こる。
専売局の役人が、大陸産の密輸煙草を売っていた老婆を銃床で激しく殴打した事件をきっかけに、中国人の統治に不満を抱いていた台湾人たちは、一斉に政治改革を要求して立ち上がったのである。
当時、家族を養うために密輸煙草の販売に手を染めている台湾人は少なくなかった。日本の闇市、闇米の類いと考えればいいだろう。しかし、大陸から来た国民政府高官は、そのような台湾民衆の生きる糧すら奪おうとしたのであった。

「僕は半年ばかり療養して新聞社に入りました。この後、台湾で有名な二・二八事件が起こりました。
結局僕の観察においてはどうしてこんな事件がおこったかというと、日本統治時代においては台湾は文明国に入っていた。規律を守り公に立つ。ところが落伍のシナ人が台湾人よりも相当遅れていた、文化的に。落伍の国家が文明の国家を統治するんだから必ず摩擦が出てくる。シナ人にすれば強姦とか略奪は平常の平常。鉄砲を持って略奪している。政治的にも相当な腐敗。台湾人は辛抱に辛抱を重ねて最後において堪忍袋が切れたというわけです」

非武装の民衆デモに対して中国民党の軍隊は、機関銃掃射を浴びせて来た。台湾全土で罪もない民衆が無差別に虐殺されたのである。

「大きな通りでシナ兵が機関銃で掃射している。僕は野菜売りの女の子が虐殺されているのを見た。若い青年も倒れている。何の理由もなしに相当の虐殺をやった。
そこで、僕ら青年が立ち上がった。特に僕ら戦地帰りが。それから学生だね。台中一中、商業学校、それから大学生が集まって、台湾独立治安隊、警察隊、台中師専隊、台中商専隊とかをこしらえた。学生隊と言えども日本軍より日本らしかった。日本の軍服を若い17、18の者が着ていました。私は21歳で隊長。それで、武器を奪い取ってシナ人のいる派出所などを攻撃しました」

台湾製「大日本帝国軍隊」の復活

国府軍の暴虐に対して、台湾人は終に武器を取って起ち上がった。前出の葉子成氏も決起に加わったという。

「放送局を占拠して、元日本軍人を招集しました。かつての軍人たちは所属していた部隊に関係なく集まりました。陸軍、海軍もバラバラに集まって来ました。
集まって来た人は、日本軍の軍服が国府(中華民国国民政府)側の倉庫にあったので、みんなでこれを奪い取って着て軍人に返りました。武器もありましたよ。終戦2年後にして大日本帝国軍人の復活、大日本帝国軍隊の復興ですよ。高砂義勇隊も山から降りて来ました。嘉義や台中では高砂義勇隊が出て戦いました」

「国府側の部隊約100名が、台中市内の文化会館に立て籠もって、なかなかこれを制圧できないでいたんです。ラバウルから帰ってきた戦友が戦後は消防隊にいましたが、彼がガソリンを消防車に入れて、“ガソリンをかけるぞ”と言って脅しました。この時、高砂部隊も手伝いに来ていて、ガソリンをかけた後に火矢で撃つことになっていました。国府側は恐れをなして武器を置いて全員投降しました」

このようにして、台湾側は、次々と国府軍を制圧し投降させていった、という。
続けて葉氏は述べる。

「兄が台東の測候所に務めていたんですが、測候所には電信機があるんで、これで各地に連絡しました。電信で受けた各地の情報を、ビラに書いて街々に貼る。そうするとみんながやる気になります。嘉義も勝った、台北も勝った、台中も勝った、高雄も勝った、と喜びました」

台湾の人々の決起によって、国府側の支配地域は次第に狭められていった。司馬遼太郎氏の言葉を借りれば、正に「台湾人による台湾が始まりそうな勢い」であった。

しかし、やがて国府側の反撃が始まる。陳儀行政長官は、台湾側に妥協をするようなポーズを取り時間稼ぎをしながら、大陸の蒋介石総統へ援軍を依頼していたのである。
精鋭の中国陸軍第21師団と憲兵第四団が高雄と基隆へ同時に上陸すると、陳儀の軍隊も一斉に反撃を開始した。これには、さしもの台湾製「大日本帝国軍」も苦戦が予想された。葉子成氏は言う。

「武器がだめなんです。(終戦から)2年も手入れをしていないと錆びて弾が出ないやつがあるんです。武器がもっといいのがあればもっと戦えたと思います」

黄氏は、それでも戦いを諦めなかった。

「シナの軍隊が基隆へ上陸して、台湾の青年をみんな虐殺をやっていると情報が入ってきました。そこで僕らは軍事会議を開いた。上陸してきたのが陳儀の軍隊と違う、良い軍隊ならば武装を放棄しようと思ったが、情報によるとシナの軍隊はやはりひどい軍隊である。そこで、我々は武装で対抗しなければならない、と言う結論を出しました」

黄氏は、台中で抵抗して台湾人の死者が出るのを避けるため、埔里山へ入り中華民国軍を迎撃する作戦に出た。既に、黄氏の率いた40名以外は解散して民衆に紛れている。結局、黄氏の部隊は、中華民国の第21師団700名の部隊を相手に、山や谷や桟橋で実に22日間にも亙って激戦を繰り広げ、最後は再起を期して解散した。黄氏は数年間、逃亡生活を続けたが終に捕らえられ、24年間に亙って投獄された。

台湾独立を見捨ててはならない

葉子成氏は言う。

「日本へも放送で援軍を呼びかけたのですが、日本軍はとうとう来ませんでした。今思えば、日本も占領されて大変な時期だったので仕方のないことだと思います」

その放送の電波が、果たして日本まで届いたかどうか、知らない。しかし、日本軍の来援を信じ、優勢な国府軍と戦い、殲滅されていった台湾人部隊があったことは歴史上の事実である。そして、仕方がないこととはいえ、日本はこれを見捨ててしまったのである。  黄氏は、こぶしを握りながらこう述べられた。

「日本の訓練においては、困苦欠乏に耐えて後初めて戦闘というのがあります。だから24年間相当な虐待を受けても、そのときの訓練を思い出して最後まで耐えられました。
今も昔の日本精神を持って台湾の独立運動をやっています。台湾は日本の補給線、バシー海峡を保護しています。僕らが生きている間は日本とは兄弟ですよ。万一中華人民共和国に台湾が取られたら、東亜の和平への妨害は非常に大きいです。
日本にお願いしたい点は、台湾の独立を応援してほしいことです。今度台湾の大統領(陳水扁総統のこと)が出ましたから、将来も固く兄弟として結んでアジアの平和のためにがんばっていきましょう」

台湾で、独立を望む人々の声は、日本のマスコミで報じられる以上に大きい。そして、彼らは日本の支援を強く求めているのである。しかも、日本への期待は「日本精神」を持つと自負される65歳以上の方が特に強い。この方々がいらっしゃる今こそは、ある意味、台湾との友好を確たるものにするための、本当に最後のチャンスであるのかもしれない。
今度こそ、日本は台湾を決して見捨ててはならない。


台湾教育の原点・六士先生

「日本教育」を自慢する台湾人

日本時代の教育を受けた人の多くは、自分は「日本教育」であったことを自慢する。東方工商専科学校校長の許國雄氏もその一人である。許氏は、台湾人でありながら、蒋介石の息子・蒋経國氏と談判し、外省人支配の国民党を内部から改革すべく入党、台湾省教育会理事長を経て立法委員(国会議員)を務めた。

「台湾省教育会の理事長を務めていた時に、教科書会社が自分の所の教科書を買ってほしいとお金を持ってきます。でも、俺は日本教育で九州男児(久留米高等医専卒業だから)だ。そんなものは受け取れない、と全部返しました」

許國雄氏は、日本統治時代が終わっても日本時代の精神を守り続けている。また、政治家、教育者としての立場から日本との教育交流を進めている。
例えば、戒厳令時代からの歴史を持つ、日華交流教育会の台湾側の受け入れ体制をつくったのが、許國雄氏であった。同会は、日本と台湾の教育者による交流、研究活動の発表を一年おきに両国交互に開催している。また、台湾問題の入門書として広く読まれている『台湾と日本・交流秘話』(展転社)を監修したのも許氏である。この本は、日華教育研究会の第19回大会における「日華両国に生きる文化遺産」と題する前高千穂商科大学教授・名越二荒之助氏のスライド講演をもとにしたもので、現在日本人観光客を相手にする台湾人ガイドにもバイブル的に読まれている。

日本精神で国民党を改革

日台友好の大きな要の役割を果たしている許國雄氏だが、国民党へ入党し、現在の地位を築きあげるまでの道程は決して平坦ではなかった。高雄市参議員(市会議員)だった許氏の父親は、二・二八事件で国民党軍から銃殺されている。

「あの頃、反共青年救国団の主任が蒋経國さんで、わりと台湾の青年のことを理解しておった。そして、私は呼ばれて奇跡的に話をする機会を得ました。私は言いました。 “二・二八事件で、私の親父は死にました。私も死に損ないました。
でも、蒋主任さん、誤解しないで下さい。これは、最初から台湾人が政府に対抗するために起こした事件ではありません。台湾人が期待していたことと本当の政治との間に大きな差があって、台湾人が落胆してしまったのです。決して組織的な抵抗ではありませんでした。だから、最初はボスや指導者は誰もいなかったじゃないですか。すると、蒋経國さんは、こう言いました。 “君の話はよくわかった。国民党に入って一緒に改革しよう”
私は彼の言葉の通り国民党へ入って改革しました。良かったですよ、外で騒ぐよりも。
虎穴に入らずんば、虎児を得ず』。国民党の改革は成功しました。いま、国民党の主席も副主席もみんな台湾人です。最後(総統選挙当時)、李登輝先生が主席、副主席は連戦さん。台湾人の台湾に自然となりました。いわゆる日本精神でね、大和の心で、心臓を強くして談判して成功したんです」

手にした地位で許國雄氏が取り組んだのが、先に述べた日本との教育交流であった。草開省三氏らが日華交流教育会(桑原寿二初代会長)を組織して台湾を訪れると、これを好機と見て、許氏は国会で日本との教育交流を推進することを滔々と訴えた。

「私が台湾省の教育会の理事長になった年、昭和47年、1972年、民国61年に日本との国交が断絶しました。その年に、政治は切れても教育は切れちゃいかんというわけで、草開先生などと一緒に日華の教育交流が始まりました。正直な話、僕たちは日本教育を受けて、大和魂の教育を受けているからこれだけは続けよう、ということで、26年間続けて来ました。この会議を継続すると共に、台湾の中等学校にも、短期大学にも、大学にも日本学科をつくるように提唱しました」

許國雄氏の「日本教育を受けて、大和魂の教育を受けている」という思いが、現在でも日本と台湾の交流を続ける大きな力となっているのである。

日本教育の原点「芝山巌」

では、台湾における日本教育の原点とは、一体どこにあるのであろうか。 日華交流教育会の会合で、台湾人の教師が「台湾教育の原点は六士先生にある」と話すのを幾度か聞いたことがある。「六士先生」とは、台湾の教育のために最初に日本から派遣され、芝山巖(しざんがん)学堂という学校を開いた日本人教師たちのことである。
許國雄氏と共に日華の教育交流をすすめてきた草開省三氏は次のように述べる。

「中華民国文部省の道徳教科書の編纂者である鄭来進先生が、第一回の研究会の後で声をひそめておっしゃいました。『本省人の先生は、毎年日本との教育交流をやらねばいかん、と思っている。芝山巖精神を原点として教育を進めないと台湾は駄目になる』と」

「六士先生」「芝山巖精神」とは何か、それを考えるには、まず日本が台湾を統治した最初の年まで溯らなければならない。
明治27、28年の日清戦争後、下関講和条約で台湾及び膨湖列島が日本へ割譲され、台湾では日本の統治が始められた。当初、日本政府は、日本人となることを望まない者は、2年以内に清国へ帰国すべしとの布告を出した。この布告に従って、清国へ帰った人もあり、また日本へ帰順した人も多くいたが、既得権益が脅かされることを恐れた人々は、清国の台湾順撫であった唐景松を大統領に担ぎ出して「台湾民主独立宣言」を布告、抗戦の構えを見せた。このため、日本政府は、直ちに北白川宮能久親王の率いる近衛師団を台湾へ派遣し、鎮圧の軍事行動を起こしたのであった。
日本軍は、上陸すると台湾北部でたちまちにして清国軍を打ち敗ったが、敗残兵となった清国兵は、台北城内へなだれ込んで、放火、略奪、強姦等狼藉の限りを尽くし、城内は無政府状態になっていた、という。困惑した台湾住民は、日本軍に治安の確保を依頼。明治28年6月7日、日本軍は台北を鎮圧し、漸く治安は回復されたのであった。
台北の治安が確保されると、日本政府は直ちに台湾人への教育の準備へと取りかかった。樺山資紀台湾総督は、当時、学務部長心得であった伊沢修二の意見具申を受けて、台湾にも学務部を創設、その長に伊沢を任じ、楫取道明以下全国から志ある6人の人材を集めたのである。伊沢たちは7月16日に、台北の中心から少し離れた芝山巖という岩山にある恵済宮というお宮を借りて学堂を開いた。借り賃を月5円支払ったという。

台湾の教育に殉じた「六士先生」

我々は、「六士先生」の研究者・陳絢暉氏に芝山巖学堂のあった場所への案内を依頼した。朱色で派手な飾りのついた山門をくぐり、学堂のあった頂上への階段を昇りながら、陳氏は語る。

「最初は、お金を出して生徒を集めて、日本語を教えたんです、そうしないと生徒が集まらないから。そして6人の生徒が集まりました。6人の生徒を7人の先生(伊沢と六士先生)が教えたんです」

当初、生徒は僅か6名であったが、9月には、これが21名に増え、伊沢たちの事業は周囲の住民からも次第に受け入れられつつあったという。
だが、日本人教師たちには、思わぬ不幸が待ち受けていた。 その頃、能久親王の薨去があり、伊沢は、宮の霊柩と共に日本内地へ帰京していたが、日本軍が、台湾全土で清国軍を鎮圧した後も、各地で日本統治に不満を持つ者たちのゲリラ活動が続いていた。そして、明治28年も暮れようとする頃になると、台北周辺も再び不穏な空気に包まれたのであった。付近に住む台湾人は、学務部員たちに避難を勧めたが、彼らは教育の理想を信じ、決して芝山巖を去ろうとはしなかった。

明治29年1月1日、運命の日が訪れる。6名の学務部員と用務員1名が、台北で行われる元旦の拝賀式へ出席のため下山しようとした時、そこで約百名のゲリラと遭遇したのである。

「ここですよ。六士先生と土匪(どひ)が遭遇したのは」

陳氏の指さす辺りには、清朝時代に石を積んで作られた小さな門があった。辺りは、木々が生い茂り少し薄暗い感じになっている。 ゲリラに対し、教師たちは臆せず諄々と説諭した、という。一時はゲリラ側も、それを聞き入れるように見えた。しかし、一部のゲリラが槍を持って襲いかかってきたため、ついに両者入り乱れての白兵戦となった。

「剣の心得のある先生がここで何人かを斬りました」

しかし、多くの学務部員は丸腰でたいした応戦もできなかった。台湾教育施政の魁たらんとの志に燃える6人の教師は、軍隊のような武器は何も所持していなかったのである。また、何分に多勢に無勢で、6人はあちこちでちりじりになって戦わざるをえなかった。そして、衆寡敵せず6人の学務部員と1人の用務員は終に一人残らず惨殺され、首を撥ねられてしまったのである。
当時、伊沢は、全島に日本語学校を開くため、日本で教師の募集を行っていたが、芝山巖の悲報を聞いて慟哭した。しかし、伊沢は学堂を危険な芝山巖から台北へ移すことを決して考えなかった。応募してきた第1回の講習員に「今後ともこのような事件が起こらない保証はできない。考えて取り消してもよい」と言い放ち、同年4月に未だ治安の安定しない芝山巖へ45名の講習員(教師)と共に乗り込んでいる。伊沢は、「六士の血で彩られた芝山巖で学ぶことにこそ意義がある」と考えていたという。
かくて、六士先生の殉職と、これを決して忘れてはならないとする伊沢の志が一つになって、その後の台湾教育施政の前進は着実に勝ち取られていった。日本の領台直後の明治30年、台湾の学齢児童の就学率は、総人口の0.5〜0.6%であったが、昭和17、18年頃には、これが70%を突破する。また、終戦のときの識字率は、実に92.5%にのぼり、台湾は世界で最も民度の高い地域の一つに数えるまでに発展したのであった。
ちなみに、芝山巖学堂は、その後士林公学校(場所は芝山巖より市の中心寄り)となり、多くの卒業生を輩出した。陳絢暉氏も、その第38回の卒業生である。

再建された「六士先生之墓」

伊沢は、事件の半年後の7月1日、6人の遺灰を芝山巖に合葬し、丁度台湾へ来ていた伊藤博文総理に題字を依頼、「学務官僚遭難之碑」を建て、六士先生の遺徳を偲ぶ慰霊祭を盛大に催した。また、昭和5年には、この地に六士先生を祀る芝山巖神社も建立され、その後台湾教育に殉じた日本人と台湾人の教育者が祀られた。その数は、昭和20年8月の終戦の時点で、実に337名を数えている。神社の境内には、それらご祭神の名を刻んだ3基の碑が立てられていたという。

しかし、日本の敗戦後、国民党が台湾へ乗り込んで来ると、芝山巖の様子は大きく様変わりする。かつての敵国日本の教育者が、このような形で祀られるのを中国国民党が快く思うはずがなかった。彼らは六士先生の墓や芝山巖神社を無残に破壊し、「学務官僚遭難之碑」をなぎ倒した。そして、その跡地に蒋介石の特務機関のボスであった戴笠(号は雨農)を記念する雨農図書館を建てた。また、すぐそばには、国民党の立場から芝山巖事件を説明する碑を建てたのであった。この碑文には、六士先生を殺害したのは、日本統治に反抗する「義民」と記されている。
碑を見ながら、陳絢暉氏は嘆く。

「日本語教員を殺害し、その首級まで討ち取ることは、近代国家では野蛮であり、犯罪です。賞金をもらえると思ってやったんでしょう。国民党時代には、六士先生を襲ったのは『義民』ということになっていましたが、本当はただの『土匪』ですね」

実は、六士先生の墓は、国民党支配下の戒厳令下で密かに再建されていた。

「六士先生のお墓の跡から、骨壷が地表に露出しているのを、学堂のあった恵済宮の真明住職が見つけたんです。これはいけない、と密かにお骨を移し、無銘の小さな石塔を立てました。もう50年位前のことです。その後、士林公学校の卒業生有志で、更にこのお墓を立て直しました」

陳氏が、お墓を指す。墓は、御影石でつくられた立派なもので、墓石の正面には「六氏先生之墓」と刻まれている。日付は、芝山巖学堂が開かれてから、満百年の平成7年1月1日付けである。この年、芝山巖学堂の流れを汲む士林国民小学校では、開校百周年(日本時代、国民党時代通算)の式典が行われた。また、ほぼ同時期に、芝山巖神社のご祭神として祀られていた教師の名前の入った碑2基が再建されている。

我々がこの碑文の写真を撮っていると、近くにいた60歳代くらいの台湾人男性数人が日本語で声をかけてきた。

「子供の頃は、よくこの辺で遊んだが、碑は2つでなくもっとあった。国民党が壊して崖から落とした。あんまり壊れてない2つを何年か前に、拾い上げてたて直しました」

人々はどうやら近くに住んでいる人らしい。日本統治が終了した昭和20年の時点では、まだ子供だったからか、日本語はたどたどしいが、六士先生を熱っぽく弁護する。

「本当のものを壊してウソのものを建てました」

そう言って、一人が国民党のつくった碑を指すと、皆が深くうなずいた。

しばらく話をして碑の前を離れると、そのグループとは別の人が次から次に我々に話しかけてきた。少し離れたところから、話を聞いていたのであろうか。

「悪い人が六士先生を殺しました。お金を出して生徒を集めたので、お金持ちだと思って、悪い人が六士先生を襲った。私は台北の人じゃないが、知ってます」

「あの時、六士先生を土匪が殺した。六士先生は教育のためにここに来た。本当に記念になるのはこれだ」

今度は、一人が50余年前になぎ倒されて横たえられている「学務官僚遭難之碑」の方を指した。

50年間の国民党の反日宣伝があっても、人々は決して六士先生のことを忘れてはいない。六士先生を慕い、日本教育を評価する気持ちは、今も尚台湾の人々の中に生き続けているのである。


李登輝前総統の訪日を

陳水扁総統の好意

新総統に就任した陳水扁氏は、初めて野党から誕生した総統であり新生台湾の期待の星である。しかし、陳氏は、戦後の国民党の反日教育で育った世代であり、日本に対してどのような考えを持っているのか、日本では心配する人も多い。陳氏は、総統選挙の最中にも、台湾人の元日本軍人、軍属の集会に出席して、日本政府を強く非難した、と報じられている。また、総統の周囲を固める人材は、日本に馴染みの薄い欧米留学組の若手が多い、との情報もあり、李登輝前総統時代のような親日的な政策が継続されるかどうかは不明であるとされているのである。果たして真相はどうなのであろうか。 我々は総統府において陳水扁総統にインタビューを行った。

総統は、日本と台湾の関係については、
「台湾と日本政府は、地理的にも近く、もっとも親しい隣国同士です」と日本との友好をアピールし、日本統治時代について次のように述べた。

「台湾の歴史は、それほど長くはありませんが、その間にさまざまな外来の統治も経験しました。日本統治はその一つですが、50年という長きにわたるものでしたので、その影響は不可避的なものです。ここ総統府は、日本時代の総統府の建物であり、さらにその近くに台湾帝国大学病院の建物があり、今は重要古跡に指定されています。こうした建築物だけでなく、社会全般にわたって日本の影響は色濃く残っています。今でも年配の人は普段の会話の中に日本語が混ざっていますし、カラオケで日本の懐メロを楽しむ人も多くいます。このように日本統治の影響はかなり大きいものでした。
台湾はこの日本からの影響も含め、オランダ、スペイン、明、鄭成功、清朝、国民党政府のそれぞれから影響を受けてきており、多元文化のるつぼとして独特の海洋文化を形成してきたといえましょう」

即ち、日本時代は、決して特殊なものではなく、明、鄭成功、清朝、国民党時代と同じく台湾への影響を与えてきたものの一つだとの回答である。
また、最近の、哈日族(日本へ熱烈に憧れる台湾の若者たち)現象についても、「ケンタッキー・フライドチキンやマクドナルドに興味を持つ」ことと同じであり、「流行、ファッション」の一つである、とされた。
総統の支持母体である民主進歩党が議会で少数派だからであろうか、それとも戦後の国民党の教育を受けてきた世代だからであろうか。李登輝前総統のように日本時代への特殊な思い入れのある話はなく、一言一言を極めて注意深く客観的に表現された。しかし、我々にはこれらの言葉も非常に好意的に感じられたのであった。

実は、我々は今回の台湾取材の間に、陳水扁総統が親日的である、二つの実感を掴んでいた。
その一つ目は、平成11年、台北市長であった陳水扁氏が第七代台湾総督明石元二郎をはじめ、日本人墓地の遺骨を収集し法要したことである。台北市の日本人墓地には、戦後大陸から渡って来た外省人が勝手にバラックを建設し住みついていた。しかし、彼らを強制退去させ、日本人の遺骨を改葬したのである。
二つ目は、芝山巖にあった伊藤博文総理の揮毫の六士先生(台湾教育の魁となった六人の日本人教師)の殉難記念碑の再建計画を準備したことである。この碑は、戦後国民党によってなぎ倒されて後、数十年間放置されていたが、台北市長時代の陳水扁氏によって再建計画の予算が通過させられていたのであった。我々が取材に行った際には、巨大なコンクリート製の台座が工事中であった。
この二つは、これまで数十年間いかなる台湾の為政者も為し得なかったことであり、大きな政治的決断であった。しかし、今回のインタビューの際には、総統の側からは一切その話は出なかったのである。総統は、我々がお礼を申し述べると、ただかすかに微笑された。陳水扁総統は日本に対する好意を、黙って行動で表してくれていたのであった。

国策顧問の日本観

では、欧米留学組が多いとされる、陳総統の側近はどうなのであろうか。 この件について、総統府の国策顧問である黄昭堂氏にうかがってみた。黄氏は笑顔で答えられる。

「そのことなら大丈夫でしょう。総統府には、日本のことを大事にしたい人がたくさん入りました」

では、かくおっしゃる国策顧問の一人黄氏ご自身は、日本に対してどのような印象をお持ちなのであろうか。

「私の日本の経験というのは、13歳までですね。とにかく印象としては日本人というのは威張るなあ、という感じだったのですね。で、そういう経験をしたせいかもしれないけれども、以降、私は威張る人は、どういう人であろうとも嫌なんですよ。そう、幼児体験といいますかね」

「日本人は威張る」、黄氏の日本への評価は辛口である。しかし、同時に極めて客観的でもある。

「私は26歳まで、昭和33年のクリスマスの前まで台湾にいました。蒋介石、蒋経国親子の恐怖政治をじかに経験したんです。そして、これはぶっ壊さんといかん、と思うほどひどかった。一方、日本の警察は、威張っていたけど、法律を守っていれば何も恐れることはなかった。実害はなかったんです」

黄氏は、現体制に批判的な人間を片端から捕まえて銃殺してきた国民党の官憲に比べれば、日本の官憲は威張っているだけで、実害がなかったと言われるのである。

丁度台湾で取材に当たっていた頃に目にした雑誌『なるほどザ・台湾』という本で、日本時代の官憲が、たいした罪もない台湾人を、拷問して殺したこともあった、というのを見たので、こんなことが、本当にあったのかどうか聞いてみたが、「そんなことがあるわけないじゃないですか」と、一蹴されてしまった。

「植民地であっても日本人は法を守るんですよ。法が悪法であろうと、いい法であろうとね。とにかく規則には非常にやかましいですね」

黄氏は、現在台湾独立建国連盟主席であり、日本で長く台湾独立運動を展開して来られた。日本、台湾双方の事情に精通する人物である。このような人が国策顧問にいれば、日本人にも心強い。
我々は続いて、やはり総統府の国策顧問である許文龍奇美実業会長へとインタビューを行った。

「台湾の松下幸之助」の親日

許文龍氏は、現総統について次のように述べられた。

「陳水扁は、確かに、反日教育を受けた世代ですが、今一番必要なパートナーは日本であるという意識が強いです」

許文龍氏も陳水扁総統の親日を確信しておられる。許氏は、国民党の李登輝氏の強力な支援者であったが、総統選挙では、民主進歩党の陳水扁氏を支持し、その勝利に大きな役割を果たした。 許文龍氏が会長を務める奇美実業は、その主要な工場を台南市におく、世界最大のABS樹脂の製造メーカーである。その生産量は、世界第2位の米国のGEにも大きく差をつけ、日本の大手十社分を全て合計しても勝てないほどのものである。許文龍会長は、この会社を一代で築き上げ、「台湾の松下幸之助」と呼ばれている。許氏の会社の社員教育の特徴は、とても親日的なことである。

「私が社員教育でとくに植民地時代の日本についてしゃべるのは、反日教育を受けた人たちの解毒剤としてまず正しい観方をしてもらうためです。 うちの会社というのは三菱が若干投資している。三菱の会長がうちの役員になっている。それくらいうちの発展というのは、日本と切り離せない関係にあるわけです。しかし、従業員というものは、日本は悪いことをした、という教育を受けているから、会社の発展ということを考える上においてもこの教育は大事なんです」

しかし、許会長は、日本と「切り離せない」のは、奇美実業だけではなく、台湾経済全体もそうであると説く。

「これは、奇美実業に限らず、台湾の戦後から今日までの発展というのは、我々日本の教育を受けた世代、特に職業学校を出た技術者(許氏は工業学校の機械科)が、アメリカの爆撃によって廃墟になったところから、それを復活させて今日の台湾をつくったわけです。また、戦後の技術、今の新しい工場というのは、全部距離的に近い日本から来たわけですよ。この十年間くらいで、初めてアメリカのハイテクが入ってきましたが、それまではほとんど日本です。ただ、そのことを政府はあまり言いたくない。ですから、表向き一般の人はあまり知らないけど、ほとんど日本の技術、日本の設備、日本の半製品でもって加工していろいろなものをつくって輸出する。そういう時代がずっと続いてきたのです」

許氏は、戦後の台湾企業の成長の要因に日本との関係があったことを、客観的に分析しているのである。

※台湾と日本の民間交流に力を尽くされた許國雄氏は、2002年逝去されました。本作品『新台湾と日本』ではインタビューを収録していますが、氏の遺稿を元に『台湾と日本がアジアを救う-光は東方より』が刊行されています。

後藤新平の銅像をつくる

許氏は言う。

「台湾人は過去の認識について、ほとんど政府の言うままでした。当然、反日ですから日本の植民地時代は搾取されたということになります。
それに対して我々の世代は不満があります。我々は、かつて日本人だったし、良い教育を受け、台湾の今日の発展は植民地時代50年によって近代化の基礎が作られたおかげなのです。
台湾に貢献した日本人はたくさんいますが、私は、その中でも後藤新平の功績は際だったものだと思います」

後藤新平は、第4代台湾総督児玉源太郎の民政長官として、7年間台湾で善政を敷いた人物である。
日本統治以前の台湾は、マラリヤ、赤痢、チブス等の伝染病が流行し、当時の台湾人の平均寿命は僅かに30歳でしかなかったと言われている。また、阿片吸引者も多く、人々の生活は荒んでいた。そこで、後藤新平は、徹底的に台湾の衛生環境と医療の改善を行い、伝染病や阿片の撲滅に努めたのであった。

「台湾は、ずっと無政府状態だったんです。清の時代も都市だけを押さえるのがやっとでした。台南の城は夕方5時以降は門を閉めます。しかし日本時代になり、特に第4代総督児玉大将時代に後藤新平が来てから一挙に治安、衛生がよくなりました。それは、彼が台湾に合ったやり方を選択したからです。
当時の台湾には、大地主の下に中間搾取層があり、彼らが反日を扇動しました。日本が来たら搾取ができなくなるからです。後藤は、彼らの土地をお金で買い取り小作人に分けました。このため、小作人たちは小作料の支払いが減り、生活が楽になりました。また、阿片を専売にして、徐々に減らす方法を取り、地方のボスに販売の代理権を与えました。そして、その代わりに、彼らに治安の確保をまかせたりしたのです。阿片を売った収益は、台湾衛生事業施設の経費に当てられました。 後藤新平こそは、台湾近代化の父と呼ばれるにふさわしい功労者だと思います」

許氏の後藤新平への評価はすこぶる高く、識者を集めて、後藤新平国際シンポジウムを開催されたほどである。
許氏は、奇美美術館のオーナーとしても台湾でよく知られているが、後藤新平像はここにも展示してある。この美術館には、奇美実業の収益によって膨大な数の世界の芸術品が収集されており、8階建ての巨大な建物を使っても展示できるのは、その美術品の僅か4分の1程度にしか過ぎないという。その美術館にビクトリア女王やジュリアスシーザーの像と並んで、後藤新平の像が展示されているのである。正に、許氏の後藤新平に対する思いの深さを知らされるような一事である。
ちなみに、この美術館の入場料は無料で、美術館には、いつも多くの子供たちが列をなして参観している。許氏は、美術館をつくった動機について、子供のように目を輝かしながら次のように語った。

「子供時代、台南に日本人がつくった博物館がありました。無料で見せてくれたので、私はいつも行っていました。日本は、人口10万人足らず(当時)の台南に博物館や精神病病院や伝染病病院をつくったのです。日本時代に通った博物館の思い出が私には忘れられません」

陳水扁総統のメッセージ

今回インタビューした陳水扁政権の2人の国策顧問は共に親日的であったが、我々の知る限りでも、親日的な考えを持った人々が総統の周囲にかなりいる。
日本で活躍するJET日本語学校校長の金美齢女史も国策顧問であるし、総統府の最高顧問である彭明敏氏も親日家であるという。また、東方工商専科学校校長の許国雄氏は、国民党の評議委員(顧問の上の最高幹部)を務めながら陳政権の行政院(内閣)顧問である。
こと対日政策に関しては、李登輝前総統の路線から大きな変更はなさそうである。しかし、我々は斯かる状況に決して甘えてはならない。台湾側の好意に応え、今度は日本側が為すべきことを為す番である。
陳水扁新総統から日本国民へ、我々は次のようなメッセージをお預かりした。

「総統と国民党主席の職務を退任した李登輝氏は、母校・京都大学や古い友人を訪問するために訪日の良い機会を待っておられます。
日本は中共(=大陸の中国共産党政権)をそんなに恐れることはありません。日本は『国格』を持つべきです。政府も国民も尊厳を持ち、中共の奏でる音楽に従って踊る必要はありません。日本政府が、独立主権国家としての国格と尊厳を喪失させようとしている中共を恐れることを、我々は誠に遺憾に思います。日本の世論や、国会と国民が立ち上がって政府に影響を与え、現状を突破されることを、私個人としては大きく期待しております」

取り方によっては、日本側に対して失礼、とさえ思えるほどの非常に厳しい内容のメッセージである。しかし、日本は台湾に対してこれ以上の非礼を幾度も繰り返してきたのである。 李登輝前総統の来日実現は、日台友好を前進させる上で、どうしても越えなければならない重要なハードルであり、日本人はこのために大いに力を尽くさなければならない。


台湾に祀られる日本人

疫病を防いだ義愛公

台湾教育の魁(さきがけ)となって斃れた六士先生について、前に少し触れたが、台湾人によって日本人が祀られている例は他にもある。
台湾檜の産地として知られる嘉義から車で1時間ほどの東石郷副瀬村に、富安宮という小さな廟(道教のお宮)がある。主神は、中国の武将である五府千歳だが、同じお宮の中に「義愛公」と呼ばれる日本人が祀られている。「義愛公」は、霊験あらたかで人々の信仰を集めているという。

「富安宮は、とても小さなお宮ですよ。地元によくしてくれた日本人だったので、村人が恩義を感じて廟をつくったんです。お堂は、村の委員会が管理しています」

案内をお願いした元教員の蔡徳本さんが、そう説明してくれた。
この「義愛公」は、もともと明治30年(1897)に台湾に巡査として渡った日本人森川清十郎巡査のことで、農業の指導や病人の面倒を見るなど村のために尽くし、村人からとても慕われたようである。
我々が、富安宮へ行くと、日本人と見て村の人々が集まってきた。かなり田舎なので、日本人が珍しいのであろうか。
村人の一人黄招財さん(71歳)は、森川巡査について次のように語る。

「病人をおんぶして病院へ連れて行ったり、屋根が壊れているときは、屋根の修理までしてくれました。米びつを見てお米が入ってないと同情して、お米を分けてくれました。私が村の年寄りから聞いた話なので本当の話です」

村人思いの森川巡査は、日本の台湾総督府が漁業税を課した際、税の軽減を総督府の東石支庁へ願い出た。しかし、森川巡査は、このことでかえって東石支庁から、住民を扇動していると誤解され、懲戒免職を受けてしまうのである。そして、事態を悲観して終に自決してしまう。巡査の亡骸を発見した村人たちは、声をあげ嘆き悲しんだという。行政当局は、慌てて懲戒処分を取り消したが、亡くなった巡査はもう戻らない。明治35年のことであった。

月日は流れ、大正12年(1923)、副瀬村の周辺でコレラや脳炎など伝染病が流行し、深刻な事態に至らんとしていた。村人が不安のうちに日々を過ごしていた2月のある夜のこと、村長の枕元に制服姿の警官が立ち、伝染病の予防方法を教えた。村長は、その人こそ村で語り伝えられてきた森川巡査に違いないと、村人たちを集め、「お告げ」の通りに対策を講じると伝染病は沈静化していったという。 村人たちは、森川巡査への感謝の気持ちを込めて、巡査の制服姿の木造を造り、神として富安宮へ祀ることにしたのである。その尊称は、巡査の義と徳を追慕するために「義愛公」とされた。

木像は、高さ一尺八寸(約55cm)、マントをした格好で他の神像と一緒に祀られていたが、我々が訪れると、村の人々が神座から出し、マントを外して間近で見せてくれた。 「義愛公」の神像は、霊験あらたかで、「不治の病」であると病院が見放した患者が完治したこともあるという。このため神像は、人々の求めに応じ、廟の外へも出張するようになったが、あまりの人気のため、神像はやがて3体に増やされた。
その後、数は更に増え、今いったい何体あるのか聞いてみると、 「現在台北に36。屏東に8つ。嘉義や朴子にも行かれています」と村人の一人が答えた。しかし、合計については、神像が全島を「巡っておられる」ので、誰にもわからなくなっているようなのである。案内して頂いた蔡徳本さんの話では、約80にのぼるだろうという。 神像は、森川巡査の誕生日である旧暦の4月8日に、よそへ貸し出してよいかを義愛公へ尋ね、「よい」とお告げがあれば、その後貸し出される。そして、1年後の4月8日にまた富安宮へ戻って来るのである。その時は屋台芝居が出て3日間盛大なお祭りが行われるという。このお祭りには、森川巡査のお姉さんの息子さんが、よく参加したらしい。

森川巡査の神像の一つは、村人に付き添われて日本へ里帰りしたこともあるという。帰った先は、森川巡査の遺族の住む横浜である。我々取材班がここへ来たことを聞いてかけつけてきた、という林蓬源さん(75歳)も日本まで神像に同行した一人である。

「台北にある神像の一体を、日本へお連れしていいかと聞いたら、とてもうれしい、とお告げがありました。総勢36人で行きましたが、途中で道に迷い、警察に道を聞きました。警察の人は、家までわざわざ案内してくれました。みんな快く迎えてくれてよかった。日本はとてもいいところです。衛生がとってもいいです」

森川巡査の孫に当たる方が、先祖がお世話になっているということでお金を包んで渡してくれたというが、村の人々はそのお金で更にもう一体神像をつくった。
黄招財さんは、
「台湾人が日本人のために、こんなにいいことをしていることを知ってほしいのです」と述べた。

宝くじまで当たる飛虎将軍廟

台湾人から祀られている日本人の廟で最も立派なものは、台南市にある鎮安堂「飛虎将軍廟」であろう。「飛虎(ひこ)」とは、戦闘機のことである。「将軍」とあるが、ここに祀られているのは下士官である。この廟には、旧日本海軍航空隊の杉浦兵曹長が祀られている。 この廟へは、蔡徳本さんと共に、地元の郷土史研究家である王渓清さんも一緒に案内してくれた。王渓清さんは、海軍の新型迎撃戦闘機雷電をつくっていた厚木の海軍工廠で、軍属として働いた体験を持つ。ここで働いた台湾人少年工たちの集まりは今でもしぼしば日本で開かれ、日本のマスコミにも取り上げられたことがあるが、新聞が「強制的に徴用された」と書いたことに不満を持っている。この方たちにとっては、工場での労働はあくまで志願であり、それは、名誉なことなのである。王渓清さんが、飛虎将軍廟へ関心を持った理由もその辺りのことと関係しているのかもしれない。
王さんは、述べる。

「1944年(昭和19年)10月12日のことです。米軍と日本軍の空中戦がありました。米軍の新鋭グラマンF6F戦闘機約40機の来襲に対し、日本側は台南航空隊、高雄航空隊の37機が迎撃に上がりましたが、機種は旧式の零戦32型、それも前線で破損し台湾で補修された機体が主力で、しかも、基地を飛び立った瞬間を狙われたため、大きな損害を出しました。日本側も零戦隊が、7機の米軍機を撃墜し、1機を地上砲火で撃墜、他に不確実撃墜が3機ありましたが、17機が未帰還機となりました。
この時、米軍機に体当たりして撃墜した零戦の搭乗員(パイロット)が飛虎将軍廟へ祀られている杉浦兵曹長です。ここには他にも2人の日本軍パイロットが祀られています」

当時、この空中戦を最初から最後まで見ていた17歳の農夫・呉省事さんの畑の周辺には、3機の日本機が墜落したという。体当たりで戦死したパイロットの死体は上半身はなく、下半身だけが残り、飛行靴に「杉浦」と書いてあった。呉さんは、他の住民と共に憲兵隊や航空隊の隊員が遺体を回収するのに協力した。

それから十数年後、毎晩白い衣装をつけ、白い帽子を被った人がこの辺で、幾度も目撃されるようになった。占ってみると、この空中戦で亡くなったパイロットの亡霊であるとのお告げがあった。このため、呉さんは自分の土地に、小さな祠を建て、地方の安寧と無事を祈願したのであった。すると、急にこの辺りが栄え出したのである。
王さんは、「みんな豊かになりました。治安もよくなり、宝くじまで当たるようになりました」と嬉しそうに語った。
堂守りの翁清輝さん(77歳)も「ここに廟を建てたとたん、街が急速に発展した」と言う。
翁さんが堂守りになる前、廟を長年守って来たのは、呉江河さんで、やはり遺体の収容を手伝った人の一人である。
日本軍人を祀っているので、祝詞代わりに朝は「君が代」を、夕方には「海ゆかば」を歌い続けてきた。また、線香の代わりに煙草を上げる。台湾の他の廟にはそのような習わしはない。

「日本人だけを祀る廟は珍しいです。普通は他のいろんな神様と一緒に祀られています」 蔡徳本さんもそう説明する。
初代堂守りの呉江河さんは我々が、ここを訪れた時には既に亡くなり、後を継いだのが翁清輝さんであった。この人もやはりパイロットの遺体の収容に協力した人である。翁さんの時代になっても祝詞の「君が代」「海ゆかば」は続けられていたが、現在は伴奏を流していたテープレコーダーの機械が壊れたため一時中断しているという。今回の取材で大分お世話になった蔡混燦さんが、新しいテープレコーダーを贈呈する計画中であると、後で聞いた。
それにしても、日本軍人だけを祀り、「日の丸」「海ゆかば」を歌う廟が、大陸から渡ってきた国民党政権の弾圧を受けることはなかったのであろうか。
王さんは述べる。

「この地区を視察に来た当時の蘇南成台南市長は、日本人でしかも日本軍人を祀るとはけしからんと言って、廟を取り壊そうとしました。工務局から撤去のための部隊が来ましたが、廟の付近の人々は集まって、彼らに対抗しました」

人々は、廟を守るために中国国民党へ立ち向かったのである。このことについて、蔡徳本さんも「戒厳令下では、珍しい抵抗」と述べている。かつて、台湾教育界のエリートで輝かしい将来を約束されていた蔡徳本さんは、国民党の戒厳令の下で、突然無実の罪で捕らえられ苦しい獄中生活を送った。戒厳令下で民衆が政府に抵抗することの難しさを知っている。
結局、最後は工務局側が折れ、廟は守られた。戒厳令下の台湾では、正に奇跡に近い出来事である。そして、最初4坪ほどの敷地にあった小さな祠は、やがて10坪になり、1992年には30坪の敷地にイタリア製の大理石の立派な廟となったのである。
廟の柱には「軍人として立派な最後を遂げた」という意味のことが書かれていた。それを見て、

「国のために戦った人だから、という気持ちで祀ったんだと思いますよ。日本人は国のために亡くなった人を大事にしませんよね」

と、蔡徳本さんはポツリとつぶやいた。

多くの台湾巡査の命を救った広枝音右衛門警部

台北から車で1時間半ほどの距離に台湾の仏教聖地獅頭山がある。開山は104年程前で最初は道教のお寺であったが、やがて日本の永平寺と関係がある曹洞宗の寺院となり、現在は山に18の寺院がある。その1つが観化堂だが、山全体の名称も観化堂と呼ばれている。ここにも、1人の日本人巡査の位牌が祀られている。広枝音衛門警部である。 観化堂へは、広枝警部の元部下である劉維添さんが案内してくれた。劉さんは、広枝警部との関係について次のように語ってくれた。

「大東亜戦争の際には、台湾各地で勤務についていた警察官からも多くの人が軍隊へ編入され第一線へ投入されました。(昭和18年12月頃)広枝警部は海軍巡査隊の大隊長として500名を率いフィリピンへ赴任、そのとき私は小隊長でした。現地で、陸戦隊訓練を二カ月やって、フィリピン各地へ配備されました。広枝警部は、台湾におられた頃は竹南の行政主任をしていたので、私を含め竹南の警官33名のみは、マニラの広枝警部の下で働くことになりました」

昭和20年2月になると米軍がマニラ市近郊へ上陸した。ここは、広枝警部たちの拠点のすぐそばである。 劉さんは述べる。

「マニラが完全に陥落する2月27日まで、我々は戦闘員となって市街戦をやりました。私の小隊は4名が戦死、私も負傷を負いました。戦況の悪化に伴い、巡査隊も特攻隊に編入されました。小銃が回収され、代わりに棒地雷と円錐弾が配られたのです」

円錐弾とは、約2mの棒の先に直径20cmの円錐型の爆薬がつけられたもので、棒地雷とは長さ1mほどの棒型の地雷である。いずれも、対戦車兵器で、装甲の薄い戦車の下部やキャタピラまで人の手で運ばなければならない。当然、その兵器を使用する兵士たちは生還を期さない。
思わず「その兵器を持たれたのは、台湾巡査の部隊だけですか?」と聞くと、劉さんは、「いや、他の部隊でもそうしたはずです。市内のあちこちで敵戦車が真っ赤に灼けて、引っ繰り返っていました。相当の戦果を挙げたはずです」と興奮気味に答えた。
最後は、広枝警部たちは、マニラにあるスペイン時代の古城に包囲された。既に艦隊司令部からは玉砕命令が出ている。
広枝警部は、思いつめたように、部下たちに
「ここで、これ以上戦っても無意味だ。お前たちは生きて帰れ。台湾には妻や子も待っているだろう。あらゆる手段を講じて生きて帰れ」と語ったという。

「投降せよ、という言葉は使われませんでしたが、そういう風に皆考えました。警部の話は、日本軍の中に広がり多くの人が降伏しました。そして、警部は一人で拳銃で自決されたのです」

当時のことを思い出したのであろうか。劉さんの表情も心なしか悲しそうである。そして、30年後劉さんたちは、位牌の安置にとりかかった。

「その前は、排日、抗日で、そういう話は言えたものではありませんでした。警部への恩返しのために廟を建てようと思ったのですが、廟を建てるには当局の許可が要る。このため、永代仏として位牌を安置しようということになりました。約100名の人が集まって昭和51年9月21日に安置式を行いました。毎年9月26日を慰霊祭の日とし、今年で25回目になります」

劉さんは、位牌の前へ進むと、直立不動で、「隊長、報告させて戴きます。今日…」 と、我々取材班の訪問を報告した。
位牌には、平成元年に亡くなった広枝警部の奥さんの名前も刻まれている。
「警部もお淋しいだろうと思い、昨年奥様の名前も入れさせて戴きました」
我々のお参りが終了すると、劉さんは「隊長、また来ます」と挨拶し、位牌から離れた。そして、「この位牌は私がいなくなってもお寺の方でずっと守ってくれるようになっています。位牌の由来もお寺の方でよく知っていますから大丈夫です」と 、我々を安心させるかのように言った。
山の階段を降り始めると、劉さんはいろいろな話をした。そして、話題が、不安定な台湾の政局に及んだとき、意外な話が飛び出した。
「日本がもう何年か、台湾を統治してくれればいいんですけどね」
「え?」
「我々の年代の人間には、そう思っている人間が何人もいますよ」とまじめな顔で言った。

日本は、かつて劉さんたちに、棒地雷を持って特攻するよう命じた国である。それにもかかわらず、劉さんはこれほどにも日本を好意的に解してくれているのである。劉さんばかりではない、多くの台湾の人々が日本への大きな期待と深い思いを抱いていることを、我々は決して忘れてはならない。

今も続く八田與一の墓前祭

前章では、台湾人によって祀られる日本人について書いたが、今回はその続きである。
烏山頭水庫をつくった八田與一は、台湾人に祀られる日本人の中でもかなり有名な人物である。 烏山頭水庫は、台南市より車で約1時間強の距離である。現在台湾第二の大きさを誇るこのダムは、日本時代の大正9年(1920)に着工、10年の歳月をかけて昭和5年に完成した。かつて、洪水と干ばつを繰り返していた嘉南平野は、このダムの建設によって豊かな穀倉地帯へと変貌を遂げたのである。嘉南大しゅうと呼ばれる嘉南平野に巡らされた給排水路の距離は1万6千㎞に及び、それは中国の「万里の長城」の6倍以上にも相当する。
李登輝前総統は、このダムと水路のことを流暢な日本語で「1万5千㎞もある民のための水路」と我々に説明した。

この大規模なダムの設計者であり、工事全般の指揮を取った八田與一の銅像が、今もダムを見守るように建っている。この銅像は、地元の人々がその功績を讃えて建てたものである。10年の間共に現場で汗を流した八田の人柄は人々の印象に強く残された。烏山頭ダムは八田與一の名前を冠して通称八田ダムと称されている。
嘉南農田水利組合会長の徐金錫さんが、この八田ダムについて誇らしげに説明してくれた。

「このダムは、当時の最先端の技術を駆使してつくられました。このダムのおかげで、米も砂糖キビもサツマイモも作られます。米は日本内地へも輸出していて、砂糖キビで作った砂糖は世界中の市場に進出できました。嘉南地域は穀倉地帯となって経済発展の出発点となったのです。しかし、建設に取りかかる前は、完成を疑問視する声もありました。米国技師のジャスディンも八田の技術を疑っていました。
しかし、彼は自分の意見を堅持し、ダムを建設し結果的に正しいことを証明したのです。今でも全国の農田水利の関係者の間では、嘉南大しゅうの八田與一のことは知らない者はいないほど有名です」

八田ダムの建設によって八田與一の名声は一気に高まった。
占領支配している地域に土木工事を行うのは日本人の特徴で、日本政府は今度は八田をフィリピンの綿作灌漑の調査に向かわせた。昭和17年5月のことである。ところが途中、敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて輸送船が沈没、八田は終に還らぬ人となってしまうのである。
八田の葬儀は台湾総督府による総督府葬で行われたが、烏山頭でも八田を慕う農民たちがしめやかに嘉南大しゅう水利組合葬を斎行した。
ダムの完成から10年以上が経過していたが、人々の八田を慕う気持ちは厚かった。

昭和20年8月日本は降伏。日本が降伏文書に署名する前日の9月1日未明、今度は八田夫人が、夫がつくったダムの放水路へ身を投げ八田の後を追った。八田と連れ添い、彼の仕事をたすけ、子供を育ててきた台湾を、彼女は終生の地と考えていたともいわれている。

嘉南の人々は昭和21年12月15日、銅像の後ろにその遺徳を偲び夫妻の墓を建てた。高さ1.5m程の墓の正面には、「八田与一・外代樹夫妻之墓」と刻まれている。
八田與一の墓と銅像は、反日政策下の国民党時代にも破壊されることなく今日に至っている。否、破壊されるどころか、水利会の主催で墓前祭が毎年5月8日(八田の命日)に行われてきたのである。
徐さんは述べる。

「この工事を行った八田さんは、ひとりのエンジニアとしてのみならず、嘉南地域へ尽くしてくれたた人として広く認められています。人々は毎年ここに集まって八田さんの功績を称えているのです」

戒厳令が解除された頃からは、八田與一の出身地の金沢市からも毎年墓参団が参列し、墓前祭は今も盛大に開催されているそうである。

台湾へ埋葬された明石元二郎総督

日本は台湾を統治するために台湾総督府を置いたが、第七代台湾総督明石元二郎の墓も台湾にある。
明石元二郎は、大正7(1918)年6月台湾へ赴任、その任期は短かったが、日月潭の水力電力事業着手、縦貫道路や新鉄道「海岸線」の着工、台湾の司法制度や学校制度を内地のものにより近づけることなどに功績があった。また、森林保護のため営林局の権限を強化したり、対岸の中華民国政府との友好を促進するため、両国人の合弁による華南銀行の設立や広東への病院開業等を実現したりした。明石は、赴任に際して、台湾通の政客杉山茂丸から「内地から来た日本人よりも台湾島民を第一義にして統治をしなければ双方の平等政策は行われない」とアドバイスを受けていたという。

明石は、次の首相の呼び声も高かったが、日本へ一時戻っていた大正8年10月に急病で逝去。遺骨は、その遺言により台北の三板橋墓地へ葬られた。
墓所をつくるに際しては、その遺徳を慕って募金が集まり、皇族方を除いてこのような立派な墓を持った者は未だいないというほど立派なものが建ったという。墓域は2千坪もあった。当時の写真で見ると、正面に鳥居を配した神式の立派な墓所である。

しかし、戦後になると墓所の状況は一変する。国民党と一緒に大陸から渡って来た外省人が、明石の墓所を含む日本人墓地一帯に勝手にバラックを建設して住み着き、スラム街を形成したのである。
5年程前に高千穂商科大学の名越二荒之助教授が、この墓所を探しに行くと言われるので、一緒にバラック街へ入ったことがあるが、墓所はどこにあるか全くわからず、近くに住む日本語のわかる年配の台湾人の親切な案内によって漸くそこに辿り着くことができた。
鳥居は公衆便所の柱に流用され、その惨状は痛ましいばかりであった。このバラック街を撤去して公園にしたのは、台北市長時代の陳水扁氏(現総統)であることは既に書いた。ここに至るまでには、日華交流教育会(小堀桂一郎会長)の許國雄氏や草開省三氏が陳水扁市長に対して盛んに陳情活動を行ったという。

この地域が公園にされる際、日本人の遺骨は、掘り起こされて台中の宝覚禅寺にまとめて埋葬された。しかし、明石総督のお骨だけは、行き先が決まらず冨徳霊骨棲に安置されていた。台湾当局としては、明石の墓所をどこかにちゃんとした形で建てたい意向であったのだろう。そこに現れたのが楊基銓・劉秀華夫妻である。この2人によって、明石総督は新しい墓所を得ることができたのである。

台湾海峡の守護神 明石元二郎

劉さんは言う。

「明石総督のお墓については、別に誰かから頼まれたことではないんです。主人より10歳位先輩で友人の林益謙さんが、日本人から頼まれたんです」

林益謙さんは、一高、東大出身の俊才で、台南州曽文郡郡守を経て、総督府財務局金融課事務官、同課長等を務め、後にインドネシアへ南方施政官として派遣された人物である。
当時の台湾では、数こそ朝鮮のように多くはなかったが、高等官として多くの日本人を部下に持つ台湾人行政官が存在した(朝鮮の場合、台湾の「州」に相当する「道」知事もしく副知事は朝鮮人が勤め、郡守はその半数は朝鮮人であった)。
郡とは州の次のクラスの行政単位で、その権力は絶大、電話一本で巡査部長を更迭することができた。当時台湾には52の郡があったが、劉秀華さんのご主人の楊基銓さんも、台北州宜蘭郡守を24歳(数え年)で務めている。これは台湾の総督府史上最も若い高等文官の記録となっていた。
劉さんは続ける 。

「でも、林さんは日本住まいが長く、台北近辺しかご存じないので、私が何とかしようと思ったんです。最初は、日月潭に姉が嫁いでいて土地を持っているので、姉に頼もうと思いました。しかし、法律でお墓の認定があるところしか埋葬できないことになったので、姉の土地には埋葬できませんでした。姉に、新たに墓地の認定のある土地を探してくれと頼んだところ、今度は仏教の寺院がみつかりましたが、4〜5日して断られました。」

墓所探しは随分難航したらしい。いろいろな案が出ては消えていったことは、当時から聞いていた。

「そして最後は、自分の買っているところはクリスチャンの墓地ですが、そこはどうなんだろうと思って当たってみました。一面識しかない董事長に頼んでみようと、何回も電話したがつながりませんでした。仕方なく、電話に出てくれた人に頼んで2〜3日してからまたかけたら、いい(OK)、ということでした」

斯くして明石総督のお墓は、楊基銓・劉秀華夫妻と同じ霊園に決定したのである。

「どうしてそんな気になったのかよくわかりませんが、霊感だと思います。お金も全部出すつもりでしたが、陳水扁市政が47万円用意しており、足りない分は多くの方がお金を出して下さりたちまち集まりました。主人が戦後華南銀行(明石元二郎が設立した)の会長をしていたので、華南銀行もお金を出してくれました。明石元二郎の孫の明石元紹さんも管理費等を出費されています」

台北県三芝郷福音山クリスチャン墓地の台湾海峡を臨む丘陵斜面に明石元二郎総督の墓はある。大理石造りの立派なお墓である。完成までほぼ1年を要した。

「ずっと2週間くらい雨が続いたのに、改葬の日だけは不思議に晴れました。マスコミもみんな取材に来ました。また、台湾でも有名な牧師さんが説教してくれました。明石さんは、台湾を愛して今日この地に埋葬されることとなりました。これこそが本当の愛である、というお話でした。参列者は感動してみんな泣きました」

ご主人の楊基銓さんも次のように述べる。

「明石総督の台湾を愛する心はクリスチャンと同じです。墓を建てた日付は、1907年3月26日にしました。これは、明石総督がヨーロッパ(明石元二郎はヨーロッパで駐在武官を勤めながらロシア革命を支援し、日露戦争を有利に導いた)から帰るときに台湾海峡を通った日です。実はこの日に総督の奥さんも亡くなっています」

クリスチャンの墓域で、墓石に聖書の言葉は彫られているが、十字架はなく、明石総督自作の漢詩が彫ってある。漢詩は明石元紹さんの希望であるという。銅板は、台北の墓のものをそのまま使用している。
楊さんは続けて述べられる。

「ここを選んだ理由は、遮るものがなく台湾海峡が見渡せるからです。台湾に代わって中国を睨みつけてくれているのです。これこそ正に聖書にいう「守護者」ではないでしょうか」

1949年以降の台湾は、中華人民共和国による攻撃の脅威に常に晒され続けてきた。それは、国民党時代も現在の民主進歩党政権下でも状況に大きな変化はない。斯かる状況下で、明石元二郎を台湾の「守護者」とする人々がいる。

戦争をしても国を護る気概

では、楊さんご夫妻は日本についてどのように考えているのであろうか。 楊さんは述べる。

「日本人と台湾人官吏の間には、同じ等級でも(外地勤務等の名目で)加俸がありました。台湾人高等文官に加俸が支給されるようになったのは1944年(昭和19年)からです。しかし、私の同僚は私の職務上の権限を尊重してくれ、差別観念など全くありませんでした」

劉さんはどうだろう。

「日本人の先生は、皆立派な先生でした。あの頃の教育はよかったです。日本の友達も80近い歳ですが、今でも家族同様の付き合いをしています。私は目白の日本女子大学を卒業しましたが、在学中には家政科の二類の教員免許を取りました。良妻賢母を育てることによって国を強くすることができると思ったからです」

楊さんご夫妻は、非常に親日的な方である。しかも同時に、2人とも熱烈な台湾独立論者である。中国人がつくったシンガポールがもはや中国ではないように、英国人がつくった米国が既に英国ではないように、台湾は中国ではない、と断固として主張されている。
劉さんは述べられる。

「私たちは、生まれたときは日本人でした。日本が戦争に負けて放り出されました。蒋介石が来て、ピストルを突き付けて『お前は中国人だ』と言い続けました。でも、台湾は中国でないのですから独立するのは当然です」

我々が、「でも、陳水扁も就任式では自分の任期中は独立しない、とおっしゃっていますね」と聞き返すと、次のように述べた。

「陳総統は苦労しているんです。民進党が“独立綱領をはずさない”と言ったのでほっとしました。人民が中国を怖がっているのが問題です。戦争をしても国を守りたいという位の意気を、前の政権が教えてくれればよかったんです。日本の特攻隊は『やりすぎ』なところがあったかもしれないけど、人のために自分を犠牲にするのは大事なことだと思います」

戦後多くの日本人が喪ってしまった独立国家としての当たり前の国民の気概を、この国の年輩者は「常識」として持ち続けているのである。


『台湾論』の本当の反響

台湾人は『台湾論』に反発しているか?

平成12年11月に発売された小林よしのり氏の『新ゴーマニズム宣言 台湾論』(小学館刊/以下『台湾論』)は、数ヶ月で20数万部が売れているという。これが、翌年の2月には中文(中国語)に翻訳されて台湾でも発売され、大きな騒動を引き起こしている。『台湾論』の中の慰安婦問題に関する許文龍氏の発言が、マスコミから強く非難されているのである。

許文龍氏は、前稿でも述べたように、ABS樹脂の生産量世界一を誇る奇美実業の会長であり、陳水扁総統の国策顧問(資政)も務める人物である。 許氏は、日本が従軍慰安婦問題で批判されていることをとても悔しがり、自ら慰安婦を集めて聞き取り調査まで行った。その結果、慰安婦問題は「日本軍による強制連行とは考え難い」という結論に達したのである。 我々は映画の取材の際に、その話を聞かせてもらい非常に感動した。許氏はその直後に、小林よしのり氏と会った際にも同様の話をし、小林氏はこれを『台湾論』で取り上げた。その内容が、中文版『台湾論』発売の後に、慰安婦問題の補償を日本へ要求する台湾人グループの知るところとなり、許文龍氏は激しく非難されることになるのである。

立法委員(国会議員)を含む彼らは2月23日に台北で記者会見し、「許文龍氏の言葉が慰安婦の尊厳を傷つけている」と非難して、『台湾論』出版の差し止めを求めた。台湾のマスコミも、これをセンセーショナルに報じ、台湾では一気に『台湾論』論争が巻き起こったのである。 新聞、テレビでは「台湾論バッシング」が展開され、『台湾論』の中で親日的な発言を行っている許文龍氏や蔡焜燦氏(偉詮電子会長)へは、罵詈雑言が投げつけられた。デモ隊が奇美実業へも押し寄せ、書店の前では、『台湾論』を燃やすパフォーマンスも行われたのである。

3月2日には中華民国内政部の簡太郎次長が、小林よしのり氏を入境禁止(入国禁止)にすると発表。近代民主主義国家としては異例の言論弾圧を行った。日本在住の総統国策顧問金美齢女史は、勇敢にも台湾まで飛行機で出掛けて行って、「入境禁止措置」に抗議したが、台湾のマスコミは逆にこれを袋だたきにした。
3月14日には、中華民国台北駐日経済文化代表處(事実上の大使館)新聞広報部が、『台湾論』問題に絡めて、元従軍慰安婦に対する「日本政府による正式謝罪及び補償金の給付」を要求する記者会見を行った。 そして、3月16日には、中華民国外交部の廖港民アジア局次長が、「小林よしのり氏の『台湾論』が歴史を歪曲している」として、中華民国台北駐日経済文化代表處名で小林氏への抗議書簡を送ったことを明らかにしたのである。

以上、主にマスコミで報じられることを中心に情報を総合してみると、『台湾論』は台湾人から大きな反発を受けている、かのように見える。 しかし、実際の状況は、これとはかなり違うのである。マスコミの報道だけから、『台湾論』論争を見ることは非常に危険であることを我々は知らなければならない。

元日本軍人の台湾人戦友会

台湾には、大きな可能性が残されている。それは、歴史認識を日本と共有できるかもしれない、という大いなる可能性である。

大東亜戦争における日本の敗戦によって、アジアは再び欧米諸国の影響下に入った。大ざっぱな言い方をすれば、戦争中の日本に協力した者は政権に留まる正当性を失ってしまったのである。 政権を担当できる資格は、連合国側の戦列に立って日本と戦った経験があるか、連合国側の歴史観に自らの立場を変更するか、二つに一つしかなかった。 例えば、終戦直前まで中国領土の大部分を支配し中国人民に平和をもたらした汪兆銘政権の幹部は漢奸(対日協力)の理由で処刑、一掃され、抗日戦を戦った蒋介石と毛沢東のみが中国を支配する資格を得た。日本の同盟国であったビルマは、独立を確保するため終戦間際に連合国側に寝返り日本へ背いたし、日独伊にタイを加えて四国同盟を提唱したタイは、日本との協力の責任を一人の閣僚に押し付けたため、不思議に敗戦国にならなかった。力の論理の前に歴史観は大きく変更されざるを得なかったのである。

しかし、台湾では、李登輝氏を始めとする大部分の年輩者が日本帝国の近代史上の立場に深い理解を示してくれている。また、大東亜戦争の意義を堂々と主張する『台湾論』を多くの人々が買い求めて愛読しているのである。台湾人の年輩者には、日本人と同じ戦争を同じ目的で戦ったという共通の記憶が残されているのである。

台湾では、昭和17年(1942)に陸軍の特別志願兵制度が実施されたが、1200名の募集に対して志願者は実に42万5961人(418倍)、翌18年には1800名の募集に対して志願者は更に増えて60万1147人(596倍)にも達している。昭和19年には海軍の志願兵の募集も始まり、昭和20年からは徴兵制度も始まった。 多くの台湾人青年達が日本人と共に戦争に参加し散華した。靖國神社には、日本人や韓国人、パラオ人と共に、戦死が公文書で確認できる台湾人戦死者2万8000人が祀られている。

また、生き残った台湾人の戦友の結束も固く、戒厳令時代に既に戦友会が結成されていた。 平成旅行社を営む陳棟(日本名 吉村健作)氏は、昭和17年7月に陸軍特別志願兵として志願した勇士であり、戦友会(台湾軍大48師南星同学会)結成の後は、この会の役員を務めた。 陳氏は言う。

「『六友会』の名で軽く会食程度の集いを始めたのは昭和47年頃からです。 やがて貿易会社の名で会合をカムフラージュしてゆくようになりました。要するに秘密結社です」

その名に冠せられた「六友」とは、昔訓練を重ねていた地名「六張梨」の戦友会の意である。 戦死した戦友の慰霊祭も細々と続けられた。やはり戦友会(台歩二会)の役員を務める鄭春河(上杉重雄)氏はこう語る。

「慰霊祭は、2年か3年おきにやっていました。神式でやろうと思いましたが、当局からのクレームがあり仕方なく仏式でやりました。 日本語も禁じられていましたが、復員したばかりの私は北京語は話せなかったので、国民党の官憲からは随分ひどい目に遭わされました。でも、戦友仲間が集まったときはみな日本語しか話しませんでしたよ」

1984年(昭和59年)以降は、この会は名称も「臺灣南星同學聨誼會」とし、正式に戦友会として発足した。海軍の方もこの頃「海交會」という戦友会をつくった。以前取り上げた黄金島氏らは、海交會である。

南星會と海交會は、戒厳令の解除後に台湾人戦死者を祀る忠霊塔を建立した。1990年(平成2年)12月、台中の宝覚寺に台湾出身日本軍人の戦死者の霊を祀る「平和英魂観音亭」と「霊安故郷」と刻んだ慰霊碑が建立された。この「霊安故郷」という文字は台湾人として初めて総統になった李登輝氏(当時現職)の揮毫によるものである。

周麗梅女史を苦しめる台湾のねじれ現象

昭和17年、軍の要請を受けた台湾総督府が「高砂挺身報告隊」の募集を開始するとたちまち5千名が応募に殺到した。中には先祖伝来の番刀を提げ、血書血判の志願書を持参する者まであったという。昭和17年2月、志願者の中から選抜された500名がフィリピン戦線の第二次バターン攻略戦に参加したのが第1回で、その後幾度も募集され、軍属として戦線へ投入され活躍し、人々を沸かせた。昭和19年からは「高砂特別志願兵」として正規兵の募集が始まったが、既に日本帝国の敗色は濃く、第一線で勇敢に戦い壮絶な戦死を遂げた方も多かった。

台北県烏来郷に、高砂義勇隊の活躍を称え、慰霊する「台湾高砂義勇隊戦没英霊記念碑」が建てられている。碑を建てたのは、臺灣高砂聨誼会会長の周麗梅(日本名 秋野愛子)女史である。 周女史は、碑を建てた動機について次のように語る。

「台中の宝覚寺の記念碑の除幕式に参加した高砂は私一人だったので寂しく思い、高砂族だけのものをつくりたいと思いました。戦争では、烏来だけで12名が亡くなっています。私も2人の兄を亡くしています。高砂全体では、3500名も戦死していますから、どうしてもつくりたかったんです。たくさんの借金をして漸く完成し、1992年11月に除幕式を行いました」

碑の左右には、大きな「日の丸」と「晴天白日旗」(中華民国国旗)がポールに6本づつ立てられ、風に翻っている。この「日の丸」は、最初に高砂義勇隊が結成された時に長谷川清台湾総督が揮毫した「日の丸」の複製である。

碑を立てて2年目、中華民国の警察が、この「日の丸」のことを厳しく追求してきたことがあった。

「警察が、何故日の丸なんかあげているのか、としつこくいうので、これは日の丸ではなくて、山の人(高砂族のこと)によくしてくれた人(長谷川総督)の贈り物で、日本の国旗ではない、と言い張りました。警察は仕方なく帰って行きました。」

しかし、周女史の苦労は絶えない。

「日本の方からも寄付をいただき、漸く借金を返済しました。その後、地震で壊れたところなどもあるので修理しなくてはならないのですが、なかなか資金的に難しいんです。でも、平成12年の建立十周年を機会に何とかしたいと思っています」

中華民国のために戦った人々を、中華民国政府は手厚く忠烈祠に祀ってあるが、高砂義勇隊は中華民国と戦った日本軍の組織であるため、政府の支援は受けられない。宝覚寺の和平観音亭や慰霊碑にしても同様である。多数台湾人と係わりのある慰霊碑は、民間で維持せねばならず、台湾人とは係わりのない忠烈祠は政府の庇護の下台湾中のあちこちに維持確保されているのである。大きなねじれ現象が台湾を覆っている。

『台湾論』のヒットによってこのねじれ現象が、果たして解消されるのか否か、日本と同じ歴史認識に立つことができるのか否か、今はまだ分からない。


李登輝前総統訪日実現

「本当に、このたびはみなさまのサポートと、ご支持でやっとこさ、ビザがおりました」

平成13年4月22日、日本へ向かう飛行機の中で台湾の前総統李登輝氏は、日本人記者たちにそう語ったという。副総統時代に日本を訪れてより、実に16年の歳月が経過していた。
空港には、多くの在日台湾人や日本人が出迎えに押しかけ、李登輝前総統が飛行機から地上に降り立つのが遥か遠くに見えると、「万歳」「万歳」と歓声を挙げた。人々の手には、「歓迎 李登輝先生」の横断幕やプラカードのほか、「日の丸」や「在日台湾同郷会の旗」、「晴天白日旗」が握られていた。「晴天白日旗」は、戦後大陸から中国人が台湾へ持ち込んだ中華民国の国旗。白地に緑色の台湾島、両フチ緑という旗の在日台湾同郷会は、どちらかというと中華民国体制から台湾は独立すべき、とする台湾人が多く所属している。これら3つの旗が一緒に打ち振られる光景は、やはり李登輝前総統の人気の幅広さを物語っていよう。 李前総統の車が人々の前を通りすぎると、「台湾万歳」「李登輝先生万歳」の声が再び挙がる。前総統はリムジンから半ば体を乗り出すようにしながら、腕をぐるぐる回して、人々に応えた。

アジア・オープン・フォーラムでの挫折

これまで、中華人民共和国(以下、中国)は、つねに李登輝前総統の訪日に強硬に反対してきた。台湾が国家としての完結した諸機能を保有し、台湾人民の多くは大陸との統一を望んでいないのは明らかであるにも拘わらず、中国は台湾を自国の領土であると主張しており、日本、台湾双方で絶大な人気をもつ李登輝前総統の訪日によって、台湾の国際的な地位が高まり、日本が台湾を国家として認めようとする機運が高まることを極度に警戒しているのである。
昭和47年の日中共同声明には「台湾は中国の不可分の領土とする中国政府の立場を理解、尊重する」という一文があり、中国の立場を「尊重」する日本政府は、これまで李登輝前総統の訪日に消極的立場を守ってきた。
李登輝前総統は、これまでにも幾度も日本への訪問を希望してきたが、中でも大きなヤマ場は3回あった。平成6年8月、アジア・オリンピック評議会が広島アジア大会へ招待した時。平成9年11月、母校の京都大学の創立百周年祝賀会(結局招待自体見送り)。総統職退任後の平成12年10月、長野県松本市で行われたアジア・オープン・フォーラムである。
特に、オープン・フォーラム出席には力を注ぎ、総統職や国民党主席を退いた李登輝氏は、6月に英国訪問を実現させ、サッチャー元首相と会見。10月には、ハベル大統領の招きでチェコを訪問した。宿願は、やはり台湾の運命を地勢学的に握る日本への訪問で、李氏周辺はもとより、日本側の有志も訪日実現のために立ち上がった。
まず、李登輝氏は、7月に副総統時代の訪日の際に友誼を結んだ中島嶺雄氏との共著で『アジアの知略』を日本で発刊した。中島氏はアジア・オープン・フォーラムの世話人代表である。また、李氏はその前後より「ゴーマニズム宣言」で有名に漫画家の小林よしのり氏とも頻繁に接触し、自らの日本への思いを伝えた。意気に感じた小林氏は『台湾論』を急いで完成させ、オープン・フォーラム開催前に緊急出版したのである。この『台湾論』は日本人の台湾への関心を大いに高めた。

平成11年秋、弊社も日本と台湾の友好を強化し、李登輝総統の来日の下地作りをするため、映画制作を決定。のべ一カ月にわたって台湾での現地取材活動を行った。総統交代後の多忙な時期にもかかわらず李登輝前総統、陳水扁総統との単独インタビューに成功。また、世界最大のABS樹脂の生産メーカー奇美実業の許文龍会長(総統府資政)や、司馬遼太郎氏の台湾案内を務めた「老台北」こと蔡焜燦氏、二・二八事件で奇跡的に生き残り、最後は中国国民党の評議委員(最高顧問)にまでのぼりつめた許国雄氏など多彩な方々の出演を得て、台湾の実態に迫る映画を制作した。

斯くして完成した『新台湾と日本-時を越えた絆』は、各地で上映されたのであった。そして、映画を鑑賞した人々は、今でも親日的な台湾人の姿に目頭を熱くし、中国に阿り、李登輝氏の来日を受け入れようとしない日本政府の態度に強い憤りを抱いたのであった。以下はその感想の一部である。

日本精神をもって、台湾を支えた方々との絆を大切にしたいと思いました。(中略)是非台湾を旅してみたいと思います。(47歳 男性)

このビデオで親日台湾に改めて感動した。台湾についてのPRに一層つとめてほしい。(77歳 男性)

大変感動しました。歴史を共有する隣国としての台湾に同胞愛のような思いが湧きます。大国中国への「配慮」のために、最も日本人にとって心の近い台湾を世界の孤児にしてはならない。熱い涙と共にそう思わされました。(38歳 男性)

これ程親日的な人々が健在なことに驚き、そして我が先人の見識ぶりに全く敬服しました。是非、李登輝総統を日本に招待して旧交をあたため、日本の「国格」を周辺国(中国、北鮮、韓国)に毅然と示してほしい。(71歳 男性)

しかし、10月の李総統来日が実現することはなかった。
9月15日、新台湾派で個人的にも李登輝氏と親しい村上正邦参議院議員(日華議員懇談会会長代行・当時)が、台湾訪問時、「私個人としては明日にでもお招きしたいが、与党の立場からいえば、残念ながらその環境にない」と述べ、李前総統の来日は困難との考えを示した。村上氏は、訪台に先立って森首相や与党幹部とも会談しており、この日の伝達は事実上の政府=与党の考えであった。

李前総統の来日予定とほぼ同時期に中国の朱鎔基首相は、記者会見で「(李氏は)絶対に一般の人ではない。(訪日の)結果については日中双方とも十分に意識していると思う)と述べた。村上氏らは、李前総統訪日に対する中国側の批判が収まった頃を見計らって、訪日の環境づくりを改めて行う肚であったと言われるが、この後、李前総統側のビザ申請の意向が大きくマスコミで取り上げられたため、中国側の批判のトーンが再び高まり、村上氏の計画はその後日の目を見ることはなかった。10月20日、ソウルでの外相会談では「朱鎔基首相が離日してから間もないのに、李前総統がビザ申請をすると聞いて驚いた。中国にとって敏感な問題であり、適切に処理してほしい」と要請した。

李前総統は、この時日本の政府や外務省を困らせてまで無理やり訪日することを避けたいと考えていたと言われている。李前総統は、ビザの申請を取りやめた。11月、李前総統は心臓冠状動脈狭窄症を治療する手術を受けたが、来日の夢が絶たれたショックもあったのだろうか。

心ある日本人の奮起

この李登輝前総統の訪日断念は、心ある日本人に更なる奮起を促さずにはいなかった。当社が制作した映画『新台湾と日本』の上映も各地で展開された。また、台湾問題の講演会も数多く開催され、映画にも出演している黄文雄氏や蔡焜燦氏らが各地で招かれた。

そのような中、平成13年1月27日には、李登輝前総統が母校コーネル大学を訪問するため、5月に米国を訪問することか明らかになった。中国との融和政策を取ったクリントン政権でさえも、私人としてならば李氏の入国を受け入れる意向であったといわれているが、ブッシュ新政権はより積極的にビザを発給する方針であるという。この訪米が実現すれば、その帰路に日本へ立ち寄ることも可能かもしれない。実際、李氏はそのような予定を立てていた。

心ある日本人は「今度こそ」、そう強く心に思った。 2月末には、台湾で小林よしのり氏の『台湾論』の中国語版が発売され、これに登場する蔡焜燦氏や許文龍氏が、台湾の統一派(大陸との統一を望むグループ)からの激しい攻撃を受けたり、更には、日本で出版されている蔡焜燦氏の著書『台湾人と日本精神』が突如絶版にされるなどの事件も起きたが、日本・台湾の友好を精力的に進めてきた団体は、団結して、李登輝前総統の訪日の機運を大いに盛り上げたのであった。

訪日実現の経緯

4月に入ると、米国訪問の帰路に日本へ立ち寄りたい、と李前総統側から非公式に打診してきたことが明らかとなった。衛藤征士郎外務副大臣は、4月5日の記者会見で、「具体的な打診があれば(中国の意志とは関わりなく)主体的に判断する」と発言。10日正午前、李前総統は、代理人を通じて訪日のための査証(ビザ)申請書を交流協会台北事務所(事実上の駐台日本大使館)へ提出した。それも、当初の訪米の帰途の訪日という計画を変更し、訪米前の今月下旬にしたい、との申し入れである。ビザ申請書類と共に、前年11月に李氏が台湾大学病院で心臓の冠状動脈狭窄のカテーテル治療を受けた際に立ち会った倉敷中央病院の光藤和明医師(同医療法の世界的権威)による「必要な再検査の期限が迫っている」「今月24日に検査・治療を行う準備ができている」との意見書が提出された。

しかし、交流協会台北事務所は、「書類は提出されたが受理していない」とし、ビザ申請の事実を隠蔽しようとした。同日中国外務省報道官は、定例記者会見で、「われわれは李登輝がいかなる名目や形式で、世界のどこに出かけて中国の分裂活動を行うことにも断固反対する」と述べた。
11日、福田内閣官房長官は、記者会見で「交流協会に確認したところ、ビザの申請および受理はないということだ」と説明。一方衛藤外務副大臣は、「ビザ書類一式は交流協会事務所に預かっている」とし、早急にビザ発給を決断するように電話で進言した。しかし、ビザ発給の決定は一向に行われなかった。これに対して、在日台湾同郷会、台湾研究フォーラムが外務省前での座り込みを決行するなど、抗議行動が相次いだ。

河野外相は13日、李氏側から正式なビザの申請はないとの見解を改めて表明した。自民党内や、閣議後の閣僚懇談会でも批判が続出し、早急にビザを発給するよう申し入れたが、河野外相は慎重な姿勢を崩さなかった。

日本政府の煮え切らぬ対応に、15日、李前総統は怒りを露にした。記者会見を開き、「日本政府はウソをついている」「今月10日に交流協会台北事務所で提出したが、その中には私のパスポートも入っている」と述べた。日本政府に迷惑をかけることに、かつてあれほど気を遣った李前総統が、日本政府を「ウソつき」呼ばわりしたのである。 18日には、公明党も党としての意見集約を断念。同日、ついに政府は「医療目的に限定」「政治活動をしないこと」を条件にビザ発給の方針を固め、翌20日、ビザ発給を正式に決定した。これに対し、李氏は謝意を表明した。

22日、李前総統は予定通り来日。人々は歓迎の準備も整わぬまま、関西国際空港へ駆けつけた。しかし、李氏の通るルートも不明のうえ、飛行機の時間が変更になり、空港での歓迎に参加することができたのは約400名ほどであった。実際に、日本人が李前総統を迎える気持ちはこの何百、何千倍も大きかったことは付言しておく必要があるだろう。

李氏がその日宿泊した大阪の帝国ホテルにも、多くの人々が集まった。歓迎の祝賀会の途中で、李前総統はわざわざ部屋の外に出て、これらの人々に手を振った。たちまち「台湾万歳」の声が起こり、「日の丸」や在日台湾同郷会の旗が振られた。 ここで特筆すべきは、日本人が「台湾万歳」を叫ぶと、台湾人は「日本万歳」を叫んだことである。「日本万歳」は、李前総統の前で幾度も唱和されたのであった。甚だ不十分な形であるにしろ、李前総統の来日が実現したことの意味の大きさを、この「日本万歳」は物語っているのである。


日本時代を語り継ぐ人々

台湾では、日本時代のことを今も語り続ける多くの人々と出会った。ある人は日本精神を滔々と語り、ある人は戦後の台湾人の悲哀を訥々と語った。

二二八記念館の日本語ボランティア

台北市の中心にある二二八平和記念公園(旧台北新公園)には、現在の陳水扁総統が、台北市長であった1997年に開館した二二八記念館がある。そこに取材に訪れた我々を日本人と見て、日本語で話しかけてきた人がいた。ボランティアとして働く蕭さんである。蕭さん自身も二二八事件の体験を持つ。

「最初は、10人くらいの人がむしろ旗を立ててデモをしたところから始まったんです。本当に小さな抗議のデモだったんです。私はインパール作戦に従軍して終戦で復員したばかりでしたから、血気にはやってすぐに参加しました。次々に人々が加わってデモはどんどん大きくなりました。そして、専売局総局へ抗議に行く途中で、デモ隊は放送局を占拠して放送したので、事件はたちまち台湾全土へと広がったのです」

実は、このデモ隊が占拠した放送局の建物が現在の二二八記念館となっている。記念館には、日本人の来館を予想してか、蕭さんの他にも、戦後生まれとおぼしき日本語ができる案内員が待機していて、我々の相手をしてくれた。また、館内の展示を開設する日本語テープとイヤホンの付いた携帯式の録音再生機が有料で貸し出されている。
受付を済ませて中の展示を見ようとすると、後ろで「教育勅語」の一節を読む声が聞こえた。蕭さんの声である。

「昔はみんな覚えさせられたものなんだ。大変だったんだから」
と大声で、若い方の案内員(台湾人)にわざわざ日本語で話しかけている。その大きな声は、我々日本人の関心をひこうと思ってのことであろうか。若い台湾人には理解できない何かを、日本人にわかってもらいたいように感じた。

記念館の展示は、日本の統治によって、司法機構、警察機構、戸籍制度、農会系統、金融財経体系統の各級政府が樹立され、初等教育の普及、大規模な灌漑系統、公路、鉄道交通、電力及び輸送系統が建設される等、日本統治を比較的公平に評価していた。続く展示では、先の大戦に台湾人も日本軍人軍属として従軍し、大きな犠牲を被ったことが展示され、日本に対してかなり批判的な内容になっている。

さらにその後に続く中国国民党の政治については、その何十倍ものスペースを使って、二二八事件における台湾人への無差別な殺戮や、その後の白色テロを用いた支配弾圧への厳しい批判が展開されていた。第二次大戦の被害がまるで霞んでしまうかのような凄まじい内容である。二二八事件の犠牲者は、インテリが多かったので、その遺影は日本時代の旧制高校の制服姿も多い。一枚一枚の写真や犠牲者の遺品から、台湾人の「悲哀」のようなものが感じられる。 白色テロ時代の展示のコーナーで、蕭さんは、

「実は、私の弟も白色テロで死にました。何も政治活動はしていません。国民党に批判的な勉強会に出ただけで、捕まって銃殺されたんです。1953年のことです。死体は三日野ざらしにされました」

と述べ、悲しい顔をされた。 二二八事件も白色テロも、日本が戦後、台湾住民の意思とは無関係に台湾人の運命を中華民国国民政府へ委ねたことにその源を発している。いわば、責任の半分は日本にもある。だからと言って、決して日本人に何をどうしてほしいわけではない。ただ、戦後の台湾人の辿った運命を、せめて日本人にはわかってほしい。蕭さんは何も語らないが、そのような思いでここにボランティアとして立ち、日本人の来館を待ち続けているように思えた。

国が変わっても連続する北一女のスピリット

戦後の台湾の学校には、日本時代の創設のものがそのまま残されているものも多い。台北市立第一女子高級中学(日本でいう高校)もその一つである。この学校は、道路を隔てて総統府に隣接する名門女子校で、全国で唯一のプラネタリウムや、温水プールも設置されている。学校の設備も教員も全て一流、正に女性のエリートを養成する学校なのである。日本で評論活動を続けておられる金美齢さんもこの学校の出身である。 校長である陳富貴さんへインタビューを行った。

「学校の運営をバックアップする意味で、父兄会やOG会も盛んです。日本時代の卒業生も創立記念日には130人位来られますよ。年間通じて300人くらいの卒業生が日本から、この学校を訪問されています」

年間300人の卒業生が海外から訪れる学校など、日本でもなかなかないであろう。いや、それ以上に驚くべきことは、この学校の歴史は、日本時代、中華民国時代を通じて連続しているのである。日本時代の「台北州立第一高等女学校」の卒業生も、「台北市立第一女子高級中学」の卒業生として数えられ、OGとして遇されているのである。 学校には校史室という学校の歴史に関するものを展示する特別な部屋があるが、ここでは日本統治下の1903年の創設の「台北州立第一高等女学校」から今日の「台北市立第一女子高級中学」(以降北一女と略す)までの歴史が連続して展示されており、日本時代の歴代校長(第1代〜7代)の写真も戦後の校長(第8〜17代)の写真と共に飾られている。国が変わっても学校の歴史は連続しているのである。 陳校長は続ける。

「現在の学校の校訓は公(公に尽くす)、誠(まごころ)、勤(勤勉)、穀(忍耐強さ)です。このスピリッツは約百年前の創立の時から一貫しています。私の前の校長の時に、日本時代の碑が土の中から見つかったので、これを現在は生徒の目につくところに置いてあるのですが、そこには、『正しく、強く、淑やかに』と彫られています。これは、今の校訓と通じるところがあると思います」

北一女の創立のスピリットは、日本時代から変わらずに一貫しているというのである。

創立百年を超える士林国民小学

平成7年に開校百周年記念祝賀大会を開催した士林国民小学も、日本時代の創立である。「開校百周年」とは、日本時代からの通算年数のことである。 林振永さんはこの学校の卒業生で、校友会の会長を務めている。

「校友会は、主に60歳以上の卒業生が多いです。若い人はお金も時間もないですから。でも、全体の5分の1位が戦後の卒業生です」

校友会は、戦前の卒業生、戦後の卒業生も入ることができる。要するに学校の歴史が戦前も戦後も連続していることに、誰も疑いを抱いてはいないのである。林さんは、小学校時代について、懐かしそうに次のように語ってくれた。

「学校は制度の上で分けられていましたが、日本の先生は決して差別をしませんでした。日本人と台湾人は全く同じように扱われました」

「制度のうえで分けられていた」とは、日本時代の台湾の小学校は、小学校と公学校に分かれていたということである。小学校は日本人が多かったが、台湾人でも官吏や教員の師弟は小学校に入った。大ざっぱに言えば、日本語が上手に話せる子供が小学校へ行き、日本語があまり得意でない台湾人の子供は、公学校へ行ったのである。そして、そのような制度的な区別はあっても、戦前戦中の日本人の先生は、生徒の差別を決してしなかったというのである。

「山で一所懸命李登輝の顔に似た石を探してきました」
林会長の指さす方には、確かに李登輝前総統の顔に似た長四角の大きな石に「春風廣被」と彫った開校百周年記念碑が建てられている。 戦後になって、校内には、中国大陸から渡ってきた支配者蒋介石総統の銅像が立てられた。また、同じ校内に、台湾人として初めて総統となった李登輝総統の揮毫で、日本統治時代の開校より百周年を記念する碑が立てられた。本音は台湾独立でも、未だに中華民国の政治体制を捨てることのできない台湾の政治状況を、小学校の校庭が表現していておもしろい。 この士林国民小学は、以前にも触れたように、井沢修二が開いて、有名な「六士先生」が教えた芝山巌学堂がその始まりである。この学校にも校史館という部屋があり、やはり北一女と同じく日本時代から現在まで通史が説明され、芝山巌学堂を開いた井沢修二以来の歴代校長の写真が飾られていた。学校の歴史は、やはり連続している。
林会長はこのような学校の歴史に強い誇りを持ち、やはり同校の卒業生である陳絢暉さんらと共に、国民党によって破壊された六士先生の墓の再建などにも取り組んだ。 林会長は、戦後の台湾の教育に大きな不満を持っている。

「日本の領台と同時にこの学校の歴史は始まりました。しかし、戦後の日本が昭和天皇のことを教えなくなったのと同じで、この学校の歴史のことを戦後は生徒たちに教えなくなりました。生徒の質ということで言えば、国民党の時代になって悪くなりました。台湾の暴走族はひどいですよ。人にすぐ斬りつけますから。今は修身を教えないで、公民だけなので悪くなっているんです。昔の日本人は四書のいいところをピックアップして教えました。今は丸暗記なので後で忘れてしまうだけです。台湾の人も日本の人も戦前の教育を受けた人の方がしっかりしています。戦後の経済発展をつくってきたのはこの人たちです」

校史館と同じ建物の中に、士林国民小昆虫貝殻博物館という部屋があったが、ここを案内してくれたのは、やはり同校の卒業生で同館館主の肩書きを持つ陳梔論さんであった。最初、陳さんは、昆虫や貝殻の話をしていたが、いきつく話題はやはり日本時代の話である。

「僕は中国の教育を受けていない。全て日本教育だ。今も宮内庁からもらった教育勅語を持っている。昭和19年頃、僕は第二回の陸軍特別志願兵へ志願し、昭和20年終戦を迎えた。戦後日本から元日本兵だった台湾人に対して見舞金が出たが、僕らは受け取らなかった。命が助かったからそれでいい」

陳さんは質実剛健、日本教育を受けたことを自慢するが、それだけに戦後の日本に対する評価は実に厳しい。

「今の日本人は日本人ではない。NHKが僕のところに取材に来たことがあるが、二つのことを言っておいた。ひとつは、今の日本人はオスかメスかわからん。二つ目は日本は教育勅語を復活すべきだ、ということだ。テレビで放送されると台湾人の友人からいっぱい賛成の声があったよ」

二世、三世の日・台交流

士林会という団体がある。士林国民小学の元教員らによる組織で、日本人も台湾人も参加している。1980年から開かれているこの会は、最初は日本人教師だけの集まりであったが、台湾からも参加するようになり、やがて5年に1度は台湾で開催されるようになった。開校104周年目に当たる平成11年の大会は、佐賀で開催され70名程が集まった。幹事を務めた北島文子さんは次のように語る。

「私は昭和9年生まれで士林小学校で学びましたが、教員ではありませんでした。教員をしていたのは父です。参加者も二世が中心になりました。先生方も高齢なので自分で主催することはなかなか難しいのですが、二世が主催するなら参加したい、という人も多いです」

寝たきりでドクターストップがかかった人も、倒れて言葉が不明瞭になった人も、士林会の開かれる日を目指して一所懸命リハビリをし、当日は元気に参加することができるという。

「士林会が近づくと元気になる方は多いです。台湾から杖をついて参加する方もおられます。それに、私たちも楽しいですよ。学校の周りに官舎があって、そこに教員の家族は住んでいたので、二世も遊び仲間です。だから、二世同士が集まっても楽しいんです」

会に集まって来るのは純粋な二世ばかりではない。士林小学校とは全く関係のない北島さんのご主人や、弟のお嫁さんも参加されているし、六士先生の係累の方や台湾関係の研究者も参加している。二世三世を加えた全く新しい形での日本・台湾の交流が始まっているのである。

新しい形で、日本と台湾の友好を深めている人は他にもいる。 以前の号で触れた海交会(旧日本海軍の戦友会)の揚俊城さんは、若い世代に日本精神を伝えることに心を砕いている。

「私は、息子が小さい頃には教育勅語の精神を教えてきました。最初は学校の先生の話と違うと戸惑っていましたが、今は私の方を正しいと信じています。
また、私は豊原の青年商会(青年会議所)の会長をしていましたが、商会のOBが集まった時には、何故日本精神が必要であるのか、という話をします。シオノギ、大正製薬、松下電器、ソニー等が何故今まで続いているのか、皆関心があります。それは、信用、時間を守る、約束を守る日本精神があるからだと説明すれば皆納得します。中国の会社は、騙してお金を儲けても信用がないのですぐ倒れるのです。だから、私は日本の青年会議所と台湾の青年会議所の橋渡しもたくさんやっています」

また、前出の陳さんが主宰する「友愛グループ」という、日本語を研究する台湾人グループがあり、戦後世代の台湾人も参加している。陳水扁新総統の自伝『台湾之子』を日本語に翻訳する際にはここのメンバーが大活躍した。このクループには短歌の会や俳句の会まである。 和歌の会の名称は「台北歌壇」という。かつてここを代表された故暮建堂さんは、外国人でありながら宮中の歌会始にも招待されたことのある人だが、次のような和歌を遺している。

萬葉の流れこの地に留めむと命の限り短歌詠みゆかむ

この和歌は、当社の『平成新選百人一首』(宇野精一/編)に収録されている。 三千年の日本歴史の中から、僅か百首を選ぶ過程においては議論百出。その作業は困難を極めた。しかし、日本人としての教育を受けながらある日突然日本人ではなくなった呉さんの和歌を、百首中の一首とすることに、編纂委員は一人も異論を挟まなかった。
戦後台湾人の味わった「悲哀」もまた、我々が決して忘れてはならない日本歴史のひとこまなのである。