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台湾独立の胎動(5)

国が変わっても連続する北一女のスピリット

戦後の台湾の学校には、日本時代の創設のものがそのまま残されているものも多い。        台北市立第一女子高級中学(日本でいう高校)もその一つである。この学校は、道路を隔てて総統府に隣接する名門女子校で、全国で唯一のプラネタリウムや、温水プールも設置されている。学校の設備も教員も全て一流、正に女性のエリートを養成する学校なのである。日本で評論活動を続けておられる金美齢さんもこの学校の出身である。 校長である陳富貴さんへインタビューを行った。

「学校の運営をバックアップする意味で、父兄会やOG会も盛んです。日本時代の卒業生も創立記念日には130人位来られますよ。年間通じて300人くらいの卒業生が日本から、この学校を訪問されています」

年間300人の卒業生が海外から訪れる学校など、日本でもなかなかないであろう。いや、それ以上に驚くべきことは、この学校の歴史は、日本時代、中華民国時代を通じて連続しているのである。日本時代の「台北州立第一高等女学校」の卒業生も、「台北市立第一女子高級中学」の卒業生として数えられ、OGとして遇されているのである。 学校には校史室という学校の歴史に関するものを展示する特別な部屋があるが、ここでは日本統治下の1903年の創設の「台北州立第一高等女学校」から今日の「台北市立第一女子高級中学」(以降北一女と略す)までの歴史が連続して展示されており、日本時代の歴代校長(第1代〜7代)の写真も戦後の校長(第8〜17代)の写真と共に飾られている。国が変わっても学校の歴史は連続しているのである。 陳校長は続ける。

「現在の学校の校訓は公(公に尽くす)、誠(まごころ)、勤(勤勉)、穀(忍耐強さ)です。このスピリッツは約百年前の創立の時から一貫しています。私の前の校長の時に、日本時代の碑が土の中から見つかったので、これを現在は生徒の目につくところに置いてあるのですが、そこには、『正しく、強く、淑やかに』と彫られています。これは、今の校訓と通じるところがあると思います」

北一女の創立のスピリットは、日本時代から変わらずに一貫しているというのである。

創立百年を超える士林国民小学

平成7年に開校百周年記念祝賀大会を開催した士林国民小学も、日本時代の創立である。「開校百周年」とは、日本時代からの通算年数のことである。 林振永さんはこの学校の卒業生で、校友会の会長を務めている。

「校友会は、主に60歳以上の卒業生が多いです。若い人はお金も時間もないですから。でも、全体の5分の1位が戦後の卒業生です」

校友会は、戦前の卒業生、戦後の卒業生も入ることができる。要するに学校の歴史が戦前も戦後も連続していることに、誰も疑いを抱いてはいないのである。林さんは、小学校時代について、懐かしそうに次のように語ってくれた。

「学校は制度の上で分けられていましたが、日本の先生は決して差別をしませんでした。日本人と台湾人は全く同じように扱われました」

「制度のうえで分けられていた」とは、日本時代の台湾の小学校は、小学校と公学校に分かれていたということである。小学校は日本人が多かったが、台湾人でも官吏や教員の師弟は小学校に入った。大ざっぱに言えば、日本語が上手に話せる子供が小学校へ行き、日本語があまり得意でない台湾人の子供は、公学校へ行ったのである。そして、そのような制度的な区別はあっても、戦前戦中の日本人の先生は、生徒の差別を決してしなかったというのである。

「山で一所懸命李登輝の顔に似た石を探してきました」林会長の指さす方には、確かに李登輝前総統の顔に似た長四角の大きな石に「春風廣被」と彫った開校百周年記念碑が建てられている。 戦後になって、校内には、中国大陸から渡ってきた支配者蒋介石総統の銅像が立てられた。また、同じ校内に、台湾人として初めて総統となった李登輝総統の揮毫で、日本統治時代の開校より百周年を記念する碑が立てられた。本音は台湾独立でも、未だに中華民国の政治体制を捨てることのできない台湾の政治状況を、小学校の校庭が表現していておもしろい。 この士林国民小学は、以前にも触れたように、井沢修二が開いて、有名な「六士先生」が教えた芝山巌学堂がその始まりである。この学校にも校史館という部屋があり、やはり北一女と同じく日本時代から現在まで通史が説明され、芝山巌学堂を開いた井沢修二以来の歴代校長の写真が飾られていた。学校の歴史は、やはり連続している。
林会長はこのような学校の歴史に強い誇りを持ち、やはり同校の卒業生である陳絢暉さんらと共に、国民党によって破壊された六士先生の墓の再建などにも取り組んだ。 林会長は、戦後の台湾の教育に大きな不満を持っている。

「日本の領台と同時にこの学校の歴史は始まりました。しかし、戦後の日本が昭和天皇のことを教えなくなったのと同じで、この学校の歴史のことを戦後は生徒たちに教えなくなりました。生徒の質ということで言えば、国民党の時代になって悪くなりました。台湾の暴走族はひどいですよ。人にすぐ斬りつけますから。今は修身を教えないで、公民だけなので悪くなっているんです。昔の日本人は四書のいいところをピックアップして教えました。今は丸暗記なので後で忘れてしまうだけです。台湾の人も日本の人も戦前の教育を受けた人の方がしっかりしています。戦後の経済発展をつくってきたのはこの人たちです」

校史館と同じ建物の中に、士林国民小昆虫貝殻博物館という部屋があったが、ここを案内してくれたのは、やはり同校の卒業生で同館館主の肩書きを持つ陳梔論さんであった。最初、陳さんは、昆虫や貝殻の話をしていたが、いきつく話題はやはり日本時代の話である。

「僕は中国の教育を受けていない。全て日本教育だ。今も宮内庁からもらった教育勅語を持っている。昭和19年頃、僕は第二回の陸軍特別志願兵へ志願し、昭和20年終戦を迎えた。戦後日本から元日本兵だった台湾人に対して見舞金が出たが、僕らは受け取らなかった。命が助かったからそれでいい」

陳さんは質実剛健、日本教育を受けたことを自慢するが、それだけに戦後の日本に対する評価は実に厳しい。

「今の日本人は日本人ではない。NHKが僕のところに取材に来たことがあるが、二つのことを言っておいた。ひとつは、今の日本人はオスかメスかわからん。二つ目は日本は教育勅語を復活すべきだ、ということだ。テレビで放送されると台湾人の友人からいっぱい賛成の声があったよ」