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台湾独立の胎動(3)

戦争をしても国を護る気概

では、楊さんご夫妻は日本についてどのように考えているのであろうか。 楊さんは述べる。

「日本人と台湾人官吏の間には、同じ等級でも(外地勤務等の名目で)加俸がありました。台湾人高等文官に加俸が支給されるようになったのは1944年(昭和19年)からです。しかし、私の同僚は私の職務上の権限を尊重してくれ、差別観念など全くありませんでした」

劉さんはどうだろう。

「日本人の先生は、皆立派な先生でした。あの頃の教育はよかったです。日本の友達も80近い歳ですが、今でも家族同様の付き合いをしています。私は目白の日本女子大学を卒業しましたが、在学中には家政科の二類の教員免許を取りました。良妻賢母を育てることによって国を強くすることができると思ったからです」

楊さんご夫妻は、非常に親日的な方である。しかも同時に、2人とも熱烈な台湾独立論者である。中国人がつくったシンガポールがもはや中国ではないように、英国人がつくった米国が既に英国ではないように、台湾は中国ではない、と断固として主張されている。
劉さんは述べられる。

「私たちは、生まれたときは日本人でした。日本が戦争に負けて放り出されました。蒋介石が来て、ピストルを突き付けて『お前は中国人だ』と言い続けました。でも、台湾は中国でないのですから独立するのは当然です」

我々が、「でも、陳水扁も就任式では自分の任期中は独立しない、とおっしゃっていますね」と聞き返すと、次のように述べた。

「陳総統は苦労しているんです。民進党が“独立綱領をはずさない”と言ったのでほっとしました。人民が中国を怖がっているのが問題です。戦争をしても国を守りたいという位の意気を、前の政権が教えてくれればよかったんです。日本の特攻隊は『やりすぎ』なところがあったかもしれないけど、人のために自分を犠牲にするのは大事なことだと思います」

戦後多くの日本人が喪ってしまった独立国家としての当たり前の国民の気概を、この国の年輩者は「常識」として持ち続けているのである。

台湾人は『台湾論』に反発しているか?

平成12年11月に発売された小林よしのり氏の『新ゴーマニズム宣言 台湾論』(小学館刊/以下『台湾論』)は、数ヶ月で20数万部が売れているという。これが、翌年の2月には中文(中国語)に翻訳されて台湾でも発売され、大きな騒動を引き起こしている。『台湾論』の中の慰安婦問題に関する許文龍氏の発言が、マスコミから強く非難されているのである。

許文龍氏は、前稿でも述べたように、ABS樹脂の生産量世界一を誇る奇美実業の会長であり、陳水扁総統の国策顧問(資政)も務める人物である。 許氏は、日本が従軍慰安婦問題で批判されていることをとても悔しがり、自ら慰安婦を集めて聞き取り調査まで行った。その結果、慰安婦問題は「日本軍による強制連行とは考え難い」という結論に達したのである。 我々は映画の取材の際に、その話を聞かせてもらい非常に感動した。許氏はその直後に、小林よしのり氏と会った際にも同様の話をし、小林氏はこれを『台湾論』で取り上げた。その内容が、中文版『台湾論』発売の後に、慰安婦問題の補償を日本へ要求する台湾人グループの知るところとなり、許文龍氏は激しく非難されることになるのである。

立法委員(国会議員)を含む彼らは2月23日に台北で記者会見し、「許文龍氏の言葉が慰安婦の尊厳を傷つけている」と非難して、『台湾論』出版の差し止めを求めた。台湾のマスコミも、これをセンセーショナルに報じ、台湾では一気に『台湾論』論争が巻き起こったのである。 新聞、テレビでは「台湾論バッシング」が展開され、『台湾論』の中で親日的な発言を行っている許文龍氏や蔡焜燦氏(偉詮電子会長)へは、罵詈雑言が投げつけられた。デモ隊が奇美実業へも押し寄せ、書店の前では、『台湾論』を燃やすパフォーマンスも行われたのである。

3月2日には中華民国内政部の簡太郎次長が、小林よしのり氏を入境禁止(入国禁止)にすると発表。近代民主主義国家としては異例の言論弾圧を行った。日本在住の総統国策顧問金美齢女史は、勇敢にも台湾まで飛行機で出掛けて行って、「入境禁止措置」に抗議したが、台湾のマスコミは逆にこれを袋だたきにした。
3月14日には、中華民国台北駐日経済文化代表處(事実上の大使館)新聞広報部が、『台湾論』問題に絡めて、元従軍慰安婦に対する「日本政府による正式謝罪及び補償金の給付」を要求する記者会見を行った。 そして、3月16日には、中華民国外交部の廖港民アジア局次長が、「小林よしのり氏の『台湾論』が歴史を歪曲している」として、中華民国台北駐日経済文化代表處名で小林氏への抗議書簡を送ったことを明らかにしたのである。

以上、主にマスコミで報じられることを中心に情報を総合してみると、『台湾論』は台湾人から大きな反発を受けている、かのように見える。 しかし、実際の状況は、これとはかなり違うのである。マスコミの報道だけから、『台湾論』論争を見ることは非常に危険であることを我々は知らなければならない。

元日本軍人の台湾人戦友会

台湾には、大きな可能性が残されている。それは、歴史認識を日本と共有できるかもしれない、という大いなる可能性である。

大東亜戦争における日本の敗戦によって、アジアは再び欧米諸国の影響下に入った。大ざっぱな言い方をすれば、戦争中の日本に協力した者は政権に留まる正当性を失ってしまったのである。 政権を担当できる資格は、連合国側の戦列に立って日本と戦った経験があるか、連合国側の歴史観に自らの立場を変更するか、二つに一つしかなかった。 例えば、終戦直前まで中国領土の大部分を支配し中国人民に平和をもたらした汪兆銘政権の幹部は漢奸(対日協力)の理由で処刑、一掃され、抗日戦を戦った蒋介石と毛沢東のみが中国を支配する資格を得た。日本の同盟国であったビルマは、独立を確保するため終戦間際に連合国側に寝返り日本へ背いたし、日独伊にタイを加えて四国同盟を提唱したタイは、日本との協力の責任を一人の閣僚に押し付けたため、不思議に敗戦国にならなかった。力の論理の前に歴史観は大きく変更されざるを得なかったのである。

しかし、台湾では、李登輝氏を始めとする大部分の年輩者が日本帝国の近代史上の立場に深い理解を示してくれている。また、大東亜戦争の意義を堂々と主張する『台湾論』を多くの人々が買い求めて愛読しているのである。台湾人の年輩者には、日本人と同じ戦争を同じ目的で戦ったという共通の記憶が残されているのである。

台湾では、昭和17年(1942)に陸軍の特別志願兵制度が実施されたが、1200名の募集に対して志願者は実に42万5961人(418倍)、翌18年には1800名の募集に対して志願者は更に増えて60万1147人(596倍)にも達している。昭和19年には海軍の志願兵の募集も始まり、昭和20年からは徴兵制度も始まった。 多くの台湾人青年達が日本人と共に戦争に参加し散華した。靖國神社には、日本人や韓国人、パラオ人と共に、戦死が公文書で確認できる台湾人戦死者2万8000人が祀られている。

また、生き残った台湾人の戦友の結束も固く、戒厳令時代に既に戦友会が結成されていた。 平成旅行社を営む陳棟(日本名 吉村健作)氏は、昭和17年7月に陸軍特別志願兵として志願した勇士であり、戦友会(台湾軍大48師南星同学会)結成の後は、この会の役員を務めた。 陳氏は言う。

「『六友会』の名で軽く会食程度の集いを始めたのは昭和47年頃からです。 やがて貿易会社の名で会合をカムフラージュしてゆくようになりました。要するに秘密結社です」

その名に冠せられた「六友」とは、昔訓練を重ねていた地名「六張梨」の戦友会の意である。 戦死した戦友の慰霊祭も細々と続けられた。やはり戦友会(台歩二会)の役員を務める鄭春河(上杉重雄)氏はこう語る。

「慰霊祭は、2年か3年おきにやっていました。神式でやろうと思いましたが、当局からのクレームがあり仕方なく仏式でやりました。 日本語も禁じられていましたが、復員したばかりの私は北京語は話せなかったので、国民党の官憲からは随分ひどい目に遭わされました。でも、戦友仲間が集まったときはみな日本語しか話しませんでしたよ」

1984年(昭和59年)以降は、この会は名称も「臺灣南星同學聨誼會」とし、正式に戦友会として発足した。海軍の方もこの頃「海交會」という戦友会をつくった。以前取り上げた黄金島氏らは、海交會である。

南星會と海交會は、戒厳令の解除後に台湾人戦死者を祀る忠霊塔を建立した。1990年(平成2年)12月、台中の宝覚寺に台湾出身日本軍人の戦死者の霊を祀る「平和英魂観音亭」と「霊安故郷」と刻んだ慰霊碑が建立された。この「霊安故郷」という文字は台湾人として初めて総統になった李登輝氏(当時現職)の揮毫によるものである。

周麗梅女史を苦しめる台湾のねじれ現象

昭和17年、軍の要請を受けた台湾総督府が「高砂挺身報告隊」の募集を開始するとたちまち5千名が応募に殺到した。中には先祖伝来の番刀を提げ、血書血判の志願書を持参する者まであったという。昭和17年2月、志願者の中から選抜された500名がフィリピン戦線の第二次バターン攻略戦に参加したのが第1回で、その後幾度も募集され、軍属として戦線へ投入され活躍し、人々を沸かせた。昭和19年からは「高砂特別志願兵」として正規兵の募集が始まったが、既に日本帝国の敗色は濃く、第一線で勇敢に戦い壮絶な戦死を遂げた方も多かった。

台北県烏来郷に、高砂義勇隊の活躍を称え、慰霊する「台湾高砂義勇隊戦没英霊記念碑」が建てられている。碑を建てたのは、臺灣高砂聨誼会会長の周麗梅(日本名 秋野愛子)女史である。 周女史は、碑を建てた動機について次のように語る。

「台中の宝覚寺の記念碑の除幕式に参加した高砂は私一人だったので寂しく思い、高砂族だけのものをつくりたいと思いました。戦争では、烏来だけで12名が亡くなっています。私も2人の兄を亡くしています。高砂全体では、3500名も戦死していますから、どうしてもつくりたかったんです。たくさんの借金をして漸く完成し、1992年11月に除幕式を行いました」

碑の左右には、大きな「日の丸」と「晴天白日旗」(中華民国国旗)がポールに6本づつ立てられ、風に翻っている。この「日の丸」は、最初に高砂義勇隊が結成された時に長谷川清台湾総督が揮毫した「日の丸」の複製である。

碑を立てて2年目、中華民国の警察が、この「日の丸」のことを厳しく追求してきたことがあった。

「警察が、何故日の丸なんかあげているのか、としつこくいうので、これは日の丸ではなくて、山の人(高砂族のこと)によくしてくれた人(長谷川総督)の贈り物で、日本の国旗ではない、と言い張りました。警察は仕方なく帰って行きました。」

しかし、周女史の苦労は絶えない。

「日本の方からも寄付をいただき、漸く借金を返済しました。その後、地震で壊れたところなどもあるので修理しなくてはならないのですが、なかなか資金的に難しいんです。でも、平成12年の建立十周年を機会に何とかしたいと思っています」

中華民国のために戦った人々を、中華民国政府は手厚く忠烈祠に祀ってあるが、高砂義勇隊は中華民国と戦った日本軍の組織であるため、政府の支援は受けられない。宝覚寺の和平観音亭や慰霊碑にしても同様である。多数台湾人と係わりのある慰霊碑は、民間で維持せねばならず、台湾人とは係わりのない忠烈祠は政府の庇護の下台湾中のあちこちに維持確保されているのである。大きなねじれ現象が台湾を覆っている。

『台湾論』のヒットによってこのねじれ現象が、果たして解消されるのか否か、日本と同じ歴史認識に立つことができるのか否か、今はまだ分からない。

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