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台湾独立の胎動(3)

多くの台湾巡査の命を救った広枝音右衛門警部

台北から車で1時間半ほどの距離に台湾の仏教聖地獅頭山がある。開山は104年程前で最初は道教のお寺であったが、やがて日本の永平寺と関係がある曹洞宗の寺院となり、現在は山に18の寺院がある。その1つが観化堂だが、山全体の名称も観化堂と呼ばれている。ここにも、1人の日本人巡査の位牌が祀られている。広枝音衛門警部である。 観化堂へは、広枝警部の元部下である劉維添さんが案内してくれた。劉さんは、広枝警部との関係について次のように語ってくれた。

「大東亜戦争の際には、台湾各地で勤務についていた警察官からも多くの人が軍隊へ編入され第一線へ投入されました。(昭和18年12月頃)広枝警部は海軍巡査隊の大隊長として500名を率いフィリピンへ赴任、そのとき私は小隊長でした。現地で、陸戦隊訓練を二カ月やって、フィリピン各地へ配備されました。広枝警部は、台湾におられた頃は竹南の行政主任をしていたので、私を含め竹南の警官33名のみは、マニラの広枝警部の下で働くことになりました」

昭和20年2月になると米軍がマニラ市近郊へ上陸した。ここは、広枝警部たちの拠点のすぐそばである。 劉さんは述べる。

「マニラが完全に陥落する2月27日まで、我々は戦闘員となって市街戦をやりました。私の小隊は4名が戦死、私も負傷を負いました。戦況の悪化に伴い、巡査隊も特攻隊に編入されました。小銃が回収され、代わりに棒地雷と円錐弾が配られたのです」

円錐弾とは、約2メートルの棒の先に直径20センチメートルの円錐型の爆薬がつけられたもので、棒地雷とは長さ1メートルほどの棒型の地雷である。いずれも、対戦車兵器で、装甲の薄い戦車の下部やキャタピラまで人の手で運ばなければならない。当然、その兵器を使用する兵士たちは生還を期さない。
思わず「その兵器を持たれたのは、台湾巡査の部隊だけですか?」と聞くと、劉さんは、「いや、他の部隊でもそうしたはずです。市内のあちこちで敵戦車が真っ赤に灼けて、引っ繰り返っていました。相当の戦果を挙げたはずです」と興奮気味に答えた。                 最後は、広枝警部たちは、マニラにあるスペイン時代の古城に包囲された。既に艦隊司令部からは玉砕命令が出ている。
広枝警部は、思いつめたように、部下たちに
「ここで、これ以上戦っても無意味だ。お前たちは生きて帰れ。台湾には妻や子も待っているだろう。あらゆる手段を講じて生きて帰れ」と語ったという。

「投降せよ、という言葉は使われませんでしたが、そういう風に皆考えました。警部の話は、日本軍の中に広がり多くの人が降伏しました。そして、警部は一人で拳銃で自決されたのです」

当時のことを思い出したのであろうか。劉さんの表情も心なしか悲しそうである。          そして、30年後劉さんたちは、位牌の安置にとりかかった。

「その前は、排日、抗日で、そういう話は言えたものではありませんでした。警部への恩返しのために廟を建てようと思ったのですが、廟を建てるには当局の許可が要る。このため、永代仏として位牌を安置しようということになりました。約100名の人が集まって昭和51年9月21日に安置式を行いました。毎年9月26日を慰霊祭の日とし、今年で25回目になります」

劉さんは、位牌の前へ進むと、直立不動で、
「隊長、報告させて戴きます。今日…」 と、我々取材班の訪問を報告した。
位牌には、平成元年に亡くなった広枝警部の奥さんの名前も刻まれている。
「警部もお淋しいだろうと思い、昨年奥様の名前も入れさせて戴きました」
我々のお参りが終了すると、劉さんは「隊長、また来ます」と挨拶し、位牌から離れた。そして、「この位牌は私がいなくなってもお寺の方でずっと守ってくれるようになっています。位牌の由来もお寺の方でよく知っていますから大丈夫です」と 、我々を安心させるかのように言った。
山の階段を降り始めると、劉さんはいろいろな話をした。そして、話題が、不安定な台湾の政局に及んだとき、意外な話が飛び出した。

「日本がもう何年か、台湾を統治してくれればいいんですけどね」
「え?」
「我々の年代の人間には、そう思っている人間が何人もいますよ」
とまじめな顔で言った。
日本は、かつて劉さんたちに、棒地雷を持って特攻するよう命じた国である。それにもかかわらず、劉さんはこれほどにも日本を好意的に解してくれているのである。劉さんばかりではない、多くの台湾の人々が日本への大きな期待と深い思いを抱いていることを、我々は決して忘れてはならない。

今も続く八田與一の墓前祭

前章では、台湾人によって祀られる日本人について書いたが、今回はその続きである。
烏山頭水庫をつくった八田與一は、台湾人に祀られる日本人の中でもかなり有名な人物である。 烏山頭水庫は、台南市より車で約1時間強の距離である。現在台湾第二の大きさを誇るこのダムは、日本時代の大正9年(1920)に着工、10年の歳月をかけて昭和5年に完成した。かつて、洪水と干ばつを繰り返していた嘉南平野は、このダムの建設によって豊かな穀倉地帯へと変貌を遂げたのである。嘉南大しゅうと呼ばれる嘉南平野に巡らされた給排水路の距離は1万6千㎞に及び、それは中国の「万里の長城」の6倍以上にも相当する。
李登輝前総統は、このダムと水路のことを流暢な日本語で「1万5千キロもある民のための水路」と我々に説明した。

この大規模なダムの設計者であり、工事全般の指揮を取った八田與一の銅像が、今もダムを見守るように建っている。この銅像は、地元の人々がその功績を讃えて建てたものである。10年の間共に現場で汗を流した八田の人柄は人々の印象に強く残された。烏山頭ダムは八田與一の名前を冠して通称八田ダムと称されている。
嘉南農田水利組合会長の徐金錫さんが、この八田ダムについて誇らしげに説明してくれた。

「このダムは、当時の最先端の技術を駆使してつくられました。このダムのおかげで、米も砂糖キビもサツマイモも作られます。米は日本内地へも輸出していて、砂糖キビで作った砂糖は世界中の市場に進出できました。嘉南地域は穀倉地帯となって経済発展の出発点となったのです。しかし、建設に取りかかる前は、完成を疑問視する声もありました。米国技師のジャスディンも八田の技術を疑っていました。
しかし、彼は自分の意見を堅持し、ダムを建設し結果的に正しいことを証明したのです。今でも全国の農田水利の関係者の間では、嘉南大しゅうの八田與一のことは知らない者はいないほど有名です」

八田ダムの建設によって八田與一の名声は一気に高まった。
占領支配している地域に土木工事を行うのは日本人の特徴で、日本政府は今度は八田をフィリピンの綿作灌漑の調査に向かわせた。昭和17年5月のことである。ところが途中、敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて輸送船が沈没、八田は終に還らぬ人となってしまうのである。
八田の葬儀は台湾総督府による総督府葬で行われたが、烏山頭でも八田を慕う農民たちがしめやかに嘉南大しゅう水利組合葬を斎行した。
ダムの完成から10年以上が経過していたが、人々の八田を慕う気持ちは厚かった。

昭和20年8月日本は降伏。日本が降伏文書に署名する前日の9月1日未明、今度は八田夫人が、夫がつくったダムの放水路へ身を投げ八田の後を追った。八田と連れ添い、彼の仕事をたすけ、子供を育ててきた台湾を、彼女は終生の地と考えていたともいわれている。

嘉南の人々は昭和21年12月15日、銅像の後ろにその遺徳を偲び夫妻の墓を建てた。高さ1.5m程の墓の正面には、「八田与一・外代樹夫妻之墓」と刻まれている。
八田與一の墓と銅像は、反日政策下の国民党時代にも破壊されることなく今日に至っている。否、破壊されるどころか、水利会の主催で墓前祭が毎年5月8日(八田の命日)に行われてきたのである。
徐さんは述べる。

「この工事を行った八田さんは、ひとりのエンジニアとしてのみならず、嘉南地域へ尽くしてくれたた人として広く認められています。人々は毎年ここに集まって八田さんの功績を称えているのです」

戒厳令が解除された頃からは、八田與一の出身地の金沢市からも毎年墓参団が参列し、墓前祭は今も盛大に開催されているそうである。