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台湾独立の胎動(3)

疫病を防いだ義愛公

台湾教育の魁(さきがけ)となって斃れた六士先生について、前に少し触れたが、台湾人によって日本人が祀られている例は他にもある。
台湾檜の産地として知られる嘉義から車で1時間ほどの東石郷副瀬村に、富安宮という小さな廟(道教のお宮)がある。主神は、中国の武将である五府千歳だが、同じお宮の中に「義愛公」と呼ばれる日本人が祀られている。「義愛公」は、霊験あらたかで人々の信仰を集めているという。

「富安宮は、とても小さなお宮ですよ。地元によくしてくれた日本人だったので、村人が恩義を感じて廟をつくったんです。お堂は、村の委員会が管理しています」

案内をお願いした元教員の蔡徳本さんが、そう説明してくれた。
この「義愛公」は、もともと明治30年(1897)に台湾に巡査として渡った日本人森川清十郎巡査のことで、農業の指導や病人の面倒を見るなど村のために尽くし、村人からとても慕われたようである。
我々が、富安宮へ行くと、日本人と見て村の人々が集まってきた。かなり田舎なので、日本人が珍しいのであろうか。
村人の一人黄招財さん(71歳)は、森川巡査について次のように語る。

「病人をおんぶして病院へ連れて行ったり、屋根が壊れているときは、屋根の修理までしてくれました。米びつを見てお米が入ってないと同情して、お米を分けてくれました。私が村の年寄りから聞いた話なので本当の話です」

村人思いの森川巡査は、日本の台湾総督府が漁業税を課した際、税の軽減を総督府の東石支庁へ願い出た。しかし、森川巡査は、このことでかえって東石支庁から、住民を扇動していると誤解され、懲戒免職を受けてしまうのである。そして、事態を悲観して終に自決してしまう。巡査の亡骸を発見した村人たちは、声をあげ嘆き悲しんだという。行政当局は、慌てて懲戒処分を取り消したが、亡くなった巡査はもう戻らない。明治35年のことであった。

月日は流れ、大正12年(1923)、副瀬村の周辺でコレラや脳炎など伝染病が流行し、深刻な事態に至らんとしていた。村人が不安のうちに日々を過ごしていた2月のある夜のこと、村長の枕元に制服姿の警官が立ち、伝染病の予防方法を教えた。村長は、その人こそ村で語り伝えられてきた森川巡査に違いないと、村人たちを集め、「お告げ」の通りに対策を講じると伝染病は沈静化していったという。 村人たちは、森川巡査への感謝の気持ちを込めて、巡査の制服姿の木造を造り、神として富安宮へ祀ることにしたのである。その尊称は、巡査の義と徳を追慕するために「義愛公」とされた。

木像は、高さ一尺八寸(約55cm)、マントをした格好で他の神像と一緒に祀られていたが、我々が訪れると、村の人々が神座から出し、マントを外して間近で見せてくれた。 「義愛公」の神像は、霊験あらたかで、「不治の病」であると病院が見放した患者が完治したこともあるという。このため神像は、人々の求めに応じ、廟の外へも出張するようになったが、あまりの人気のため、神像はやがて3体に増やされた。
その後、数は更に増え、今いったい何体あるのか聞いてみると、 「現在台北に36。屏東に8つ。嘉義や朴子にも行かれています」と村人の一人が答えた。しかし、合計については、神像が全島を「巡っておられる」ので、誰にもわからなくなっているようなのである。案内して頂いた蔡徳本さんの話では、約80にのぼるだろうという。 神像は、森川巡査の誕生日である旧暦の4月8日に、よそへ貸し出してよいかを義愛公へ尋ね、「よい」とお告げがあれば、その後貸し出される。そして、1年後の4月8日にまた富安宮へ戻って来るのである。その時は屋台芝居が出て3日間盛大なお祭りが行われるという。このお祭りには、森川巡査のお姉さんの息子さんが、よく参加したらしい。

森川巡査の神像の一つは、村人に付き添われて日本へ里帰りしたこともあるという。帰った先は、森川巡査の遺族の住む横浜である。我々取材班がここへ来たことを聞いてかけつけてきた、という林蓬源さん(75歳)も日本まで神像に同行した一人である。

「台北にある神像の一体を、日本へお連れしていいかと聞いたら、とてもうれしい、とお告げがありました。総勢36人で行きましたが、途中で道に迷い、警察に道を聞きました。警察の人は、家までわざわざ案内してくれました。みんな快く迎えてくれてよかった。日本はとてもいいところです。衛生がとってもいいです」

森川巡査の孫に当たる方が、先祖がお世話になっているということでお金を包んで渡してくれたというが、村の人々はそのお金で更にもう一体神像をつくった。
黄招財さんは、
「台湾人が日本人のために、こんなにいいことをしていることを知ってほしいのです」と述べた。

宝くじまで当たる飛虎将軍廟

台湾人から祀られている日本人の廟で最も立派なものは、台南市にある鎮安堂「飛虎将軍廟」であろう。「飛虎(ひこ)」とは、戦闘機のことである。「将軍」とあるが、ここに祀られているのは下士官である。この廟には、旧日本海軍航空隊の杉浦兵曹長が祀られている。 この廟へは、蔡徳本さんと共に、地元の郷土史研究家である王渓清さんも一緒に案内してくれた。王渓清さんは、海軍の新型迎撃戦闘機雷電をつくっていた厚木の海軍工廠で、軍属として働いた体験を持つ。ここで働いた台湾人少年工たちの集まりは今でもしぼしば日本で開かれ、日本のマスコミにも取り上げられたことがあるが、新聞が「強制的に徴用された」と書いたことに不満を持っている。この方たちにとっては、工場での労働はあくまで志願であり、それは、名誉なことなのである。王渓清さんが、飛虎将軍廟へ関心を持った理由もその辺りのことと関係しているのかもしれない。
王さんは、述べる。

「1944年(昭和19年)10月12日のことです。米軍と日本軍の空中戦がありました。米軍の新鋭グラマンF6F戦闘機約40機の来襲に対し、日本側は台南航空隊、高雄航空隊の37機が迎撃に上がりましたが、機種は旧式の零戦32型、それも前線で破損し台湾で補修された機体が主力で、しかも、基地を飛び立った瞬間を狙われたため、大きな損害を出しました。日本側も零戦隊が、7機の米軍機を撃墜し、1機を地上砲火で撃墜、他に不確実撃墜が3機ありましたが、17機が未帰還機となりました。
この時、米軍機に体当たりして撃墜した零戦の搭乗員(パイロット)が飛虎将軍廟へ祀られている杉浦兵曹長です。ここには他にも2人の日本軍パイロットが祀られています」

当時、この空中戦を最初から最後まで見ていた17歳の農夫・呉省事さんの畑の周辺には、3機の日本機が墜落したという。体当たりで戦死したパイロットの死体は上半身はなく、下半身だけが残り、飛行靴に「杉浦」と書いてあった。呉さんは、他の住民と共に憲兵隊や航空隊の隊員が遺体を回収するのに協力した。

それから十数年後、毎晩白い衣装をつけ、白い帽子を被った人がこの辺で、幾度も目撃されるようになった。占ってみると、この空中戦で亡くなったパイロットの亡霊であるとのお告げがあった。このため、呉さんは自分の土地に、小さな祠を建て、地方の安寧と無事を祈願したのであった。すると、急にこの辺りが栄え出したのである。
王さんは、「みんな豊かになりました。治安もよくなり、宝くじまで当たるようになりました」と嬉しそうに語った。
堂守りの翁清輝さん(77歳)も「ここに廟を建てたとたん、街が急速に発展した」と言う。
翁さんが堂守りになる前、廟を長年守って来たのは、呉江河さんで、やはり遺体の収容を手伝った人の一人である。
日本軍人を祀っているので、祝詞代わりに朝は「君が代」を、夕方には「海ゆかば」を歌い続けてきた。また、線香の代わりに煙草を上げる。台湾の他の廟にはそのような習わしはない。

「日本人だけを祀る廟は珍しいです。普通は他のいろんな神様と一緒に祀られています」 蔡徳本さんもそう説明する。
初代堂守りの呉江河さんは我々が、ここを訪れた時には既に亡くなり、後を継いだのが翁清輝さんであった。この人もやはりパイロットの遺体の収容に協力した人である。翁さんの時代になっても祝詞の「君が代」「海ゆかば」は続けられていたが、現在は伴奏を流していたテープレコーダーの機械が壊れたため一時中断しているという。今回の取材で大分お世話になった蔡混燦さんが、新しいテープレコーダーを贈呈する計画中であると、後で聞いた。
それにしても、日本軍人だけを祀り、「日の丸」「海ゆかば」を歌う廟が、大陸から渡ってきた国民党政権の弾圧を受けることはなかったのであろうか。
王さんは述べる。

「この地区を視察に来た当時の蘇南成台南市長は、日本人でしかも日本軍人を祀るとはけしからんと言って、廟を取り壊そうとしました。工務局から撤去のための部隊が来ましたが、廟の付近の人々は集まって、彼らに対抗しました」

人々は、廟を守るために中国国民党へ立ち向かったのである。このことについて、蔡徳本さんも「戒厳令下では、珍しい抵抗」と述べている。かつて、台湾教育界のエリートで輝かしい将来を約束されていた蔡徳本さんは、国民党の戒厳令の下で、突然無実の罪で捕らえられ苦しい獄中生活を送った。戒厳令下で民衆が政府に抵抗することの難しさを知っている。
結局、最後は工務局側が折れ、廟は守られた。戒厳令下の台湾では、正に奇跡に近い出来事である。そして、最初4坪ほどの敷地にあった小さな祠は、やがて10坪になり、1992年には30坪の敷地にイタリア製の大理石の立派な廟となったのである。
廟の柱には「軍人として立派な最後を遂げた」という意味のことが書かれていた。それを見て、

「国のために戦った人だから、という気持ちで祀ったんだと思いますよ。日本人は国のために亡くなった人を大事にしませんよね」

と、蔡徳本さんはポツリとつぶやいた。