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台湾独立の胎動(3)

国策顧問の日本観

では、欧米留学組が多いとされる、陳総統の側近はどうなのであろうか。 この件について、総統府の国策顧問である黄昭堂氏にうかがってみた。黄氏は笑顔で答えられる。

「そのことなら大丈夫でしょう。総統府には、日本のことを大事にしたい人がたくさん入りました」

では、かくおっしゃる国策顧問の一人黄氏ご自身は、日本に対してどのような印象をお持ちなのであろうか。

「私の日本の経験というのは、13歳までですね。とにかく印象としては日本人というのは威張るなあ、という感じだったのですね。で、そういう経験をしたせいかもしれないけれども、以降、私は威張る人は、どういう人であろうとも嫌なんですよ。そう、幼児体験といいますかね」

「日本人は威張る」、黄氏の日本への評価は辛口である。しかし、同時に極めて客観的でもある。

「私は26歳まで、昭和33年のクリスマスの前まで台湾にいました。蒋介石、蒋経国親子の恐怖政治をじかに経験したんです。そして、これはぶっ壊さんといかん、と思うほどひどかった。一方、日本の警察は、威張っていたけど、法律を守っていれば何も恐れることはなかった。実害はなかったんです」

黄氏は、現体制に批判的な人間を片端から捕まえて銃殺してきた国民党の官憲に比べれば、日本の官憲は威張っているだけで、実害がなかったと言われるのである。

丁度台湾で取材に当たっていた頃に目にした雑誌『なるほどザ・台湾』という本で、日本時代の官憲が、たいした罪もない台湾人を、拷問して殺したこともあった、というのを見たので、こんなことが、本当にあったのかどうか聞いてみたが、「そんなことがあるわけないじゃないですか」と、一蹴されてしまった。

「植民地であっても日本人は法を守るんですよ。法が悪法であろうと、いい法であろうとね。とにかく規則には非常にやかましいですね」

黄氏は、現在台湾独立建国連盟主席であり、日本で長く台湾独立運動を展開して来られた。日本、台湾双方の事情に精通する人物である。このような人が国策顧問にいれば、日本人にも心強い。
我々は続いて、やはり総統府の国策顧問である許文龍奇美実業会長へとインタビューを行った。

「台湾の松下幸之助」の親日

許文龍氏は、現総統について次のように述べられた。

「陳水扁は、確かに、反日教育を受けた世代ですが、今一番必要なパートナーは日本であるという意識が強いです」

許文龍氏も陳水扁総統の親日を確信しておられる。許氏は、国民党の李登輝氏の強力な支援者であったが、総統選挙では、民主進歩党の陳水扁氏を支持し、その勝利に大きな役割を果たした。 許文龍氏が会長を務める奇美実業は、その主要な工場を台南市におく、世界最大のABS樹脂の製造メーカーである。その生産量は、世界第2位の米国のGEにも大きく差をつけ、日本の大手十社分を全て合計しても勝てないほどのものである。許文龍会長は、この会社を一代で築き上げ、「台湾の松下幸之助」と呼ばれている。許氏の会社の社員教育の特徴は、とても親日的なことである。

「私が社員教育でとくに植民地時代の日本についてしゃべるのは、反日教育を受けた人たちの解毒剤としてまず正しい観方をしてもらうためです。 うちの会社というのは三菱が若干投資している。三菱の会長がうちの役員になっている。それくらいうちの発展というのは、日本と切り離せない関係にあるわけです。しかし、従業員というものは、日本は悪いことをした、という教育を受けているから、会社の発展ということを考える上においてもこの教育は大事なんです」

しかし、許会長は、日本と「切り離せない」のは、奇美実業だけではなく、台湾経済全体もそうであると説く。

「これは、奇美実業に限らず、台湾の戦後から今日までの発展というのは、我々日本の教育を受けた世代、特に職業学校を出た技術者(許氏は工業学校の機械科)が、アメリカの爆撃によって廃墟になったところから、それを復活させて今日の台湾をつくったわけです。また、戦後の技術、今の新しい工場というのは、全部距離的に近い日本から来たわけですよ。この十年間くらいで、初めてアメリカのハイテクが入ってきましたが、それまではほとんど日本です。ただ、そのことを政府はあまり言いたくない。ですから、表向き一般の人はあまり知らないけど、ほとんど日本の技術、日本の設備、日本の半製品でもって加工していろいろなものをつくって輸出する。そういう時代がずっと続いてきたのです」

許氏は、戦後の台湾企業の成長の要因に日本との関係があったことを、客観的に分析しているのである。

※台湾と日本の民間交流に力を尽くされた許國雄氏は、2002年逝去されました。本作品『新台湾と日本』ではインタビューを収録していますが、氏の遺稿を元に『台湾と日本がアジアを救う-光は東方より』が刊行されています。

後藤新平の銅像をつくる

許氏は言う。

「台湾人は過去の認識について、ほとんど政府の言うままでした。当然、反日ですから日本の植民地時代は搾取されたということになります。
それに対して我々の世代は不満があります。我々は、かつて日本人だったし、良い教育を受け、台湾の今日の発展は植民地時代50年によって近代化の基礎が作られたおかげなのです。
台湾に貢献した日本人はたくさんいますが、私は、その中でも後藤新平の功績は際だったものだと思います」

後藤新平は、第4代台湾総督児玉源太郎の民政長官として、7年間台湾で善政を敷いた人物である。
日本統治以前の台湾は、マラリヤ、赤痢、チブス等の伝染病が流行し、当時の台湾人の平均寿命は僅かに30歳でしかなかったと言われている。また、阿片吸引者も多く、人々の生活は荒んでいた。そこで、後藤新平は、徹底的に台湾の衛生環境と医療の改善を行い、伝染病や阿片の撲滅に努めたのであった。

「台湾は、ずっと無政府状態だったんです。清の時代も都市だけを押さえるのがやっとでした。台南の城は夕方5時以降は門を閉めます。しかし日本時代になり、特に第4代総督児玉大将時代に後藤新平が来てから一挙に治安、衛生がよくなりました。それは、彼が台湾に合ったやり方を選択したからです。
当時の台湾には、大地主の下に中間搾取層があり、彼らが反日を扇動しました。日本が来たら搾取ができなくなるからです。後藤は、彼らの土地をお金で買い取り小作人に分けました。このため、小作人たちは小作料の支払いが減り、生活が楽になりました。また、阿片を専売にして、徐々に減らす方法を取り、地方のボスに販売の代理権を与えました。そして、その代わりに、彼らに治安の確保をまかせたりしたのです。阿片を売った収益は、台湾衛生事業施設の経費に当てられました。 後藤新平こそは、台湾近代化の父と呼ばれるにふさわしい功労者だと思います」

許氏の後藤新平への評価はすこぶる高く、識者を集めて、後藤新平国際シンポジウムを開催されたほどである。
許氏は、奇美美術館のオーナーとしても台湾でよく知られているが、後藤新平像はここにも展示してある。この美術館には、奇美実業の収益によって膨大な数の世界の芸術品が収集されており、8階建ての巨大な建物を使っても展示できるのは、その美術品の僅か4分の1程度にしか過ぎないという。その美術館にビクトリア女王やジュリアスシーザーの像と並んで、後藤新平の像が展示されているのである。正に、許氏の後藤新平に対する思いの深さを知らされるような一事である。
ちなみに、この美術館の入場料は無料で、美術館には、いつも多くの子供たちが列をなして参観している。許氏は、美術館をつくった動機について、子供のように目を輝かしながら次のように語った。

「子供時代、台南に日本人がつくった博物館がありました。無料で見せてくれたので、私はいつも行っていました。日本は、人口10万人足らず(当時)の台南に博物館や精神病病院や伝染病病院をつくったのです。日本時代に通った博物館の思い出が私には忘れられません」