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台湾独立の胎動(2)

「日本教育」を自慢する台湾人

日本時代の教育を受けた人の多くは、自分は「日本教育」であったことを自慢する。東方工商専科学校校長の許國雄氏もその一人である。許氏は、台湾人でありながら、蒋介石の息子・蒋経國氏と談判し、外省人支配の国民党を内部から改革すべく入党、台湾省教育会理事長を経て立法委員(国会議員)を務めた。

「台湾省教育会の理事長を務めていた時に、教科書会社が自分の所の教科書を買ってほしいとお金を持ってきます。でも、俺は日本教育で九州男児(久留米高等医専卒業だから)だ。そんなものは受け取れない、と全部返しました」

許國雄氏は、日本統治時代が終わっても日本時代の精神を守り続けている。また、政治家、教育者としての立場から日本との教育交流を進めている。
例えば、戒厳令時代からの歴史を持つ、日華交流教育会の台湾側の受け入れ体制をつくったのが、許國雄氏であった。同会は、日本と台湾の教育者による交流、研究活動の発表を一年おきに両国交互に開催している。また、台湾問題の入門書として広く読まれている『台湾と日本・交流秘話』(展転社)を監修したのも許氏である。この本は、日華教育研究会の第19回大会における「日華両国に生きる文化遺産」と題する前高千穂商科大学教授・名越二荒之助氏のスライド講演をもとにしたもので、現在日本人観光客を相手にする台湾人ガイドにもバイブル的に読まれている。

日本精神で国民党を改革

日台友好の大きな要の役割を果たしている許國雄氏だが、国民党へ入党し、現在の地位を築きあげるまでの道程は決して平坦ではなかった。高雄市参議員(市会議員)だった許氏の父親は、二・二八事件で国民党軍から銃殺されている。

「あの頃、反共青年救国団の主任が蒋経國さんで、わりと台湾の青年のことを理解しておった。そして、私は呼ばれて奇跡的に話をする機会を得ました。私は言いました。 “二・二八事件で、私の親父は死にました。私も死に損ないました。
でも、蒋主任さん、誤解しないで下さい。これは、最初から台湾人が政府に対抗するために起こした事件ではありません。台湾人が期待していたことと本当の政治との間に大きな差があって、台湾人が落胆してしまったのです。決して組織的な抵抗ではありませんでした。だから、最初はボスや指導者は誰もいなかったじゃないですか。すると、蒋経國さんは、こう言いました。 “君の話はよくわかった。国民党に入って一緒に改革しよう”
私は彼の言葉の通り国民党へ入って改革しました。良かったですよ、外で騒ぐよりも。
虎穴に入らずんば、虎児を得ず』。国民党の改革は成功しました。いま、国民党の主席も副主席もみんな台湾人です。最後(総統選挙当時)、李登輝先生が主席、副主席は連戦さん。台湾人の台湾に自然となりました。いわゆる日本精神でね、大和の心で、心臓を強くして談判して成功したんです」

手にした地位で許國雄氏が取り組んだのが、先に述べた日本との教育交流であった。草開省三氏らが日華交流教育会(桑原寿二初代会長)を組織して台湾を訪れると、これを好機と見て、許氏は国会で日本との教育交流を推進することを滔々と訴えた。

「私が台湾省の教育会の理事長になった年、昭和47年、1972年、民国61年に日本との国交が断絶しました。その年に、政治は切れても教育は切れちゃいかんというわけで、草開先生などと一緒に日華の教育交流が始まりました。正直な話、僕たちは日本教育を受けて、大和魂の教育を受けているからこれだけは続けよう、ということで、26年間続けて来ました。この会議を継続すると共に、台湾の中等学校にも、短期大学にも、大学にも日本学科をつくるように提唱しました」

許國雄氏の「日本教育を受けて、大和魂の教育を受けている」という思いが、現在でも日本と台湾の交流を続ける大きな力となっているのである。