日本の歴史・伝統文化など「日本人の誇り」をよみがえらせる書籍の出版をしています

台湾独立の胎動(2)

二.二八事件で起き上がった戦地帰り

黄氏は、葉氏と同じ中日海交協會で理事を務めている。
昭和17年、医師になることを志して内地へ行った黄氏は、東京、荻窪の親戚のところから学校へ通った。しかし、正義感の強い黄氏は、軍の仕事をやるべきだと考え、海軍の鉄道部の試験を受けて合格、ここでの訓練の後、海南島の海軍軍事部へ軍属として勤務された。ところがこれにもあきたらず、海軍特別志願兵の募集が始まると今度はこれに志願し、本当の軍人になってしまった。

「600名の応募者の中で僕は合格して、それから横須賀第四陸戦隊に入隊しました。そのときは日本国民として、若い青年はみんな日本の国家のために尽くさなければいけない。
僕は、抜擢されて陸戦隊の猛訓練を受けました。6カ月の猛訓練の後に、第七機動部隊の作戦部隊に配属されました。海南島においては、山の中にシナ軍の遊撃隊が隠れている。それに対して僕らは反遊撃戦、毎日あそこで。昭和20年の最後まで僕らは頑張った。けれど、日本は終戦になってしまいました」

終戦後は、台湾人と日本人は別々に分けられ、日本人は日本へ送還された。黄氏を含む台湾人軍人軍属1600名は中国軍の集中営へ収容された。しかし、ここでの中国人の台湾人に対する処遇はあまりにひどく、黄氏は、海南島から台湾本島へ決死の脱出を決行した。

黄氏が、台中へ戻ってしばらく経った頃、二・二八事件が起こる。
専売局の役人が、大陸産の密輸煙草を売っていた老婆を銃床で激しく殴打した事件をきっかけに、中国人の統治に不満を抱いていた台湾人たちは、一斉に政治改革を要求して立ち上がったのである。
当時、家族を養うために密輸煙草の販売に手を染めている台湾人は少なくなかった。日本の闇市、闇米の類いと考えればいいだろう。しかし、大陸から来た国民政府高官は、そのような台湾民衆の生きる糧すら奪おうとしたのであった。

「僕は半年ばかり療養して新聞社に入りました。この後、台湾で有名な二・二八事件が起こりました。
結局僕の観察においてはどうしてこんな事件がおこったかというと、日本統治時代においては台湾は文明国に入っていた。規律を守り公に立つ。ところが落伍のシナ人が台湾人よりも相当遅れていた、文化的に。落伍の国家が文明の国家を統治するんだから必ず摩擦が出てくる。シナ人にすれば強姦とか略奪は平常の平常。鉄砲を持って略奪している。政治的にも相当な腐敗。台湾人は辛抱に辛抱を重ねて最後において堪忍袋が切れたというわけです」

非武装の民衆デモに対して中国民党の軍隊は、機関銃掃射を浴びせて来た。台湾全土で罪もない民衆が無差別に虐殺されたのである。

「大きな通りでシナ兵が機関銃で掃射している。僕は野菜売りの女の子が虐殺されているのを見た。若い青年も倒れている。何の理由もなしに相当の虐殺をやった。
そこで、僕ら青年が立ち上がった。特に僕ら戦地帰りが。それから学生だね。台中一中、商業学校、それから大学生が集まって、台湾独立治安隊、警察隊、台中師専隊、台中商専隊とかをこしらえた。学生隊と言えども日本軍より日本らしかった。日本の軍服を若い17、18の者が着ていました。私は21歳で隊長。それで、武器を奪い取ってシナ人のいる派出所などを攻撃しました」