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台湾独立の胎動(1)

二.二八事件

しかし、実際の台湾問題は、そのような蒋介石総統への「恩義」だけの問題では割り切れない複雑な面がある。
日本人が恩義を感じている蒋介石は、台湾人にとっては逆に憎むべき弾圧者でもあったのである。

中華民国(台湾)の国民は大まかに三つに分類することができる。蒋介石の国民党と共に大陸から渡って来た外省人、十七世紀以降台湾に住んでいた本省人(台湾人)、そして更にそれ以前から台湾へ移り住んでいたマレー・ポリネシア系の九つの部族からなる先住民(高砂族)である。

外省人と本省人は共に漢民族系で、我々日本人から見ても外見上の見分けはつかないが、人口比で僅か13%でしかない外省人は、エリートとして他の87%(漢族系85%、マレー・ポリネシア系2%)の台湾人の上に君臨し続けてきた。

外省人が本省人(台湾人)を支配するようになった経過をもう少し見てみよう。そもそも、中華民国の統治する以前の台湾は、日本によって統治されていた。1895年、日清戦争の講和条約によって台湾は日本領土となる。
李登輝氏は、日本時代について次のように述べられている。

「日本時代に入りまして、台湾の近代化の基礎はつくられました。
まず、土地の制度を整備した。それは何を意味するかというと、台湾においては大地主と小地主があってその下に小作人がいた。こんなことをやっておったら土地の売買は全然不可能です。資本主義化するための台湾の基礎をつくらなければならない。
その次にやったのは度量衡の整備。いろんな場所に行くと重さを測るものが違う。重さが違えば容器も違うし、そういう度量衡整備をやった。
第三は貨幣制度を作った。貨幣を台湾銀行発行の紙幣に一定させた。
この三つは本当に基本ですよ。そこから建設が始められる。鉄道をつくる。通信を始める。それから蓬莱米をつくる。蓬莱米とは日本品種の米。ドイツから肥料を入れてやる。お砂糖の会社の発展。いろんな事業が興った。
それから教育問題。普遍的に教育の推進をやった。それから衛生、医療設備の整備。この50年、もし台湾が日本の植民地でなかったら、今の海南島より大変だったと邱永漢さんは言いますけれども、これは全くしかりなんですよ」

大日本帝国の版図となった台湾は、本土からの投資によって内地と同様に道路、鉄道、港湾設備等の建設が進められ、電気、ガス、上下水道等が整備され、現地人が使用するための学校や病院の建設もすすめられた。教育が普及し、衛生観念や遵法精神が強く確立された。

「日本時代における植民地政策というのは、日本から見れば日本の国がどれだけの仕事ができるかを示すチャンスでした。日本は、台湾のために本当に奮闘したわけです」

李登輝氏の日本統治時代への評価は高い。
実際、当時の台湾のインフラの整備度や台湾人民の民度の高さは世界有数であったろう。 しかし、日本の統治も決して完全無欠であったわけではない。台湾島民については、進学や官吏の就業について本土出身者と比べて不利な点もあり、エリート層には不満も存在していた。このため、昭和20年に日本が敗戦し、中華民国が台湾を統治することが決まると、多くの台湾人が光復(祖国復帰)を喜んだのであった。

台湾で長く高級中学(高校)の教員を務められた蔡徳本氏は、光復の時の感慨を次のように述べられる。

「当時、嬉しくなかった人は恐らく一人もいないでしょう。日本人は戦争後の不安がありますでしょう。で、私たちには戦後の不安はなかったわけなんです。まあ、これで、自分の祖国に戻ったんだと、そういうナイーブな喜びしかなかったんですよ」

台湾人は、祖国中華民国の軍隊が来るまでの間、自治組織をつくり、台湾島内のあらゆる機能を日本時代と同様に動かした。

1962年に来日し、以降今日まで日本で暮らしている工学博士の連根藤氏は、当時を次のように振りかえる。

「日本の警察は、終戦の後は遠慮して何にもやらなくなったので、台湾人の自警団が出来ました。20歳代位の人が多かったです。提灯を持って何人かで組みになって、台北市から永和市へ行く道に変な人がいないか巡回するんです。治安はよく確保されました」

当時の台湾の治安は、終戦のどさくさの時期であるにもかかわらず、極めて良好に確保された。また、道路はチリ一つないほどきれいに清掃され、鉄道等の交通機関も以前と全く変わらず定刻通りに運行された。人々は、祖国の軍隊を迎える喜びに満ち溢れていたのである。

人々は手製の「晴天白日旗」(中華民国の旗)を持って基隆港へ、祖国の軍隊を出迎えに向かった。しかし、期待は間もなく裏切られることとなる。
前出の蔡徳本氏は述べられる。

「その軍隊がね、敗残兵みたいな軍隊だったんですよ。規律も何もないんですよ。それから来た官吏はもう汚職ばかりでね、能のない人ばっかりだったんですよ。日本人とは全く違います」

船が港に横付けされ、降りてきた中国軍兵士は肩に棒を担ぎ、その棒には、傘、敷布団、
料理鍋、コップなどがぶら下げられていた。靴を履かずに裸足の者も多かった。一時間もしないうちに兵士達は町に散って行き、気に入った店頭の商品を勝手に持ち去り、或いは大掛かりな略奪を行った。人通りの少ない場所であれば強姦は半ば公然と行われた。
また、国民党の官吏たちは、工場施設や倉庫の在庫を次々と接収し、食料、機械類等を大陸の市場で競売にかけるべく、ジャンク船で毎日運び出した。台湾の物価は高騰し、台湾人はその日の生活にも窮するようになった。

人々は、大陸の中国人と台湾人の価値観の違いに戸惑った、という。衛生観念、責任感、行政能力、何を取っても台湾人、日本人とは余りにかけ離れていたのである。しかも、国民党側は、台湾人を、「日本人による奴隷化政策で堕落している」とし、同胞としてではなく征服者として君臨したのであった。
高雄市にある東方工商専科学校の許国雄校長は次のように述べている。

「台湾人は、それまで日本の植民地の国民でした。大東亜戦争後、自分の祖国、中華民国の政府が来たんですけど、その政治が日本時代の政治より悪いんですよ。それで台湾の人はがっかりしました。その時に起きたのが二・二八事件です」

1947年2月27日、専売局の役人が無許可でタバコを販売していた老婆に激しい暴行を加えた事件を契機に、台湾民衆は終に立ち上がった。
当時、台湾の生産者は生産品を安価で専売局等の公営機関へ売ることを義務づけられており、高級官吏はこれらを高価で転売し私腹を肥やしていたのである。非武装の民衆デモに対し、陳儀行政長官は機銃掃射をもって報いたが、抗議行動はたちまち台湾全土へと波及し、陳儀長官の更迭を含む政治改革を蒋介石総統へ要求した。

しかし、当時南京にあった蒋介石総統は、直ちに大陸から援軍を送ってこれを武力で鎮圧した。上陸した第21師団と憲兵隊は無差別に市民に発砲しながら、台湾全土を徹底的に制圧したのである。以降、台湾には戒厳令が敷かれ、恐怖政治の時代が約四十年も続くこととなる。