台湾独立の胎動(4)

台湾独立の胎動(4)

李登輝前総統訪日実現

「本当に、このたびはみなさまのサポートと、ご支持でやっとこさ、ビザがおりました」

平成13年4月22日、日本へ向かう飛行機の中で台湾の前総統李登輝氏は、日本人記者たちにそう語ったという。副総統時代に日本を訪れてより、実に16年の歳月が経過していた。
空港には、多くの在日台湾人や日本人が出迎えに押しかけ、李登輝前総統が飛行機から地上に降り立つのが遥か遠くに見えると、「万歳」「万歳」と歓声を挙げた。人々の手には、「歓迎 李登輝先生」の横断幕やプラカードのほか、「日の丸」や「在日台湾同郷会の旗」、「晴天白日旗」が握られていた。「晴天白日旗」は、戦後大陸から中国人が台湾へ持ち込んだ中華民国の国旗。白地に緑色の台湾島、両フチ緑という旗の在日台湾同郷会は、どちらかというと中華民国体制から台湾は独立すべき、とする台湾人が多く所属している。これら3つの旗が一緒に打ち振られる光景は、やはり李登輝前総統の人気の幅広さを物語っていよう。 李前総統の車が人々の前を通りすぎると、「台湾万歳」「李登輝先生万歳」の声が再び挙がる。前総統はリムジンから半ば体を乗り出すようにしながら、腕をぐるぐる回して、人々に応えた。

アジア・オープン・フォーラムでの挫折

これまで、中華人民共和国(以下、中国)は、つねに李登輝前総統の訪日に強硬に反対してきた。台湾が国家としての完結した諸機能を保有し、台湾人民の多くは大陸との統一を望んでいないのは明らかであるにも拘わらず、中国は台湾を自国の領土であると主張しており、日本、台湾双方で絶大な人気をもつ李登輝前総統の訪日によって、台湾の国際的な地位が高まり、日本が台湾を国家として認めようとする機運が高まることを極度に警戒しているのである。
昭和47年の日中共同声明には「台湾は中国の不可分の領土とする中国政府の立場を理解、尊重する」という一文があり、中国の立場を「尊重」する日本政府は、これまで李登輝前総統の訪日に消極的立場を守ってきた。
李登輝前総統は、これまでにも幾度も日本への訪問を希望してきたが、中でも大きなヤマ場は3回あった。平成6年8月、アジア・オリンピック評議会が広島アジア大会へ招待した時。平成9年11月、母校の京都大学の創立百周年祝賀会(結局招待自体見送り)。総統職退任後の平成12年10月、長野県松本市で行われたアジア・オープン・フォーラムである。
特に、オープン・フォーラム出席には力を注ぎ、総統職や国民党主席を退いた李登輝氏は、6月に英国訪問を実現させ、サッチャー元首相と会見。10月には、ハベル大統領の招きでチェコを訪問した。宿願は、やはり台湾の運命を地勢学的に握る日本への訪問で、李氏周辺はもとより、日本側の有志も訪日実現のために立ち上がった。
まず、李登輝氏は、7月に副総統時代の訪日の際に友誼を結んだ中島嶺雄氏との共著で『アジアの知略』を日本で発刊した。中島氏はアジア・オープン・フォーラムの世話人代表である。また、李氏はその前後より「ゴーマニズム宣言」で有名に漫画家の小林よしのり氏とも頻繁に接触し、自らの日本への思いを伝えた。意気に感じた小林氏は『台湾論』を急いで完成させ、オープン・フォーラム開催前に緊急出版したのである。この『台湾論』は日本人の台湾への関心を大いに高めた。

平成11年秋、弊社も日本と台湾の友好を強化し、李登輝総統の来日の下地作りをするため、映画制作を決定。のべ一カ月にわたって台湾での現地取材活動を行った。総統交代後の多忙な時期にもかかわらず李登輝前総統、陳水扁総統との単独インタビューに成功。また、世界最大のABS樹脂の生産メーカー奇美実業の許文龍会長(総統府資政)や、司馬遼太郎氏の台湾案内を務めた「老台北」こと蔡焜燦氏、二・二八事件で奇跡的に生き残り、最後は中国国民党の評議委員(最高顧問)にまでのぼりつめた許国雄氏など多彩な方々の出演を得て、台湾の実態に迫る映画を制作した。

VHSビデオ 新台湾と日本

斯くして完成した『新台湾と日本-時を越えた絆』は、各地で上映されたのであった。そして、映画を鑑賞した人々は、今でも親日的な台湾人の姿に目頭を熱くし、中国に阿り、李登輝氏の来日を受け入れようとしない日本政府の態度に強い憤りを抱いたのであった。以下はその感想の一部である。

日本精神をもって、台湾を支えた方々との絆を大切にしたいと思いました。(中略)是非台湾を旅してみたいと思います。(47歳 男性)

このビデオで親日台湾に改めて感動した。台湾についてのPRに一層つとめてほしい。(77歳 男性)

大変感動しました。歴史を共有する隣国としての台湾に同胞愛のような思いが湧きます。大国中国への「配慮」のために、最も日本人にとって心の近い台湾を世界の孤児にしてはならない。熱い涙と共にそう思わされました。(38歳 男性)

これ程親日的な人々が健在なことに驚き、そして我が先人の見識ぶりに全く敬服しました。是非、李登輝総統を日本に招待して旧交をあたため、日本の「国格」を周辺国(中国、北鮮、韓国)に毅然と示してほしい。(71歳 男性)

しかし、10月の李総統来日が実現することはなかった。
9月15日、新台湾派で個人的にも李登輝氏と親しい村上正邦参議院議員(日華議員懇談会会長代行・当時)が、台湾訪問時、「私個人としては明日にでもお招きしたいが、与党の立場からいえば、残念ながらその環境にない」と述べ、李前総統の来日は困難との考えを示した。村上氏は、訪台に先立って森首相や与党幹部とも会談しており、この日の伝達は事実上の政府=与党の考えであった。
李前総統の来日予定とほぼ同時期に中国の朱鎔基首相は、記者会見で「(李氏は)絶対に一般の人ではない。(訪日の)結果については日中双方とも十分に意識していると思う)と述べた。村上氏らは、李前総統訪日に対する中国側の批判が収まった頃を見計らって、訪日の環境づくりを改めて行う肚であったと言われるが、この後、李前総統側のビザ申請の意向が大きくマスコミで取り上げられたため、中国側の批判のトーンが再び高まり、村上氏の計画はその後日の目を見ることはなかった。10月20日、ソウルでの外相会談では「朱鎔基首相が離日してから間もないのに、李前総統がビザ申請をすると聞いて驚いた。中国にとって敏感な問題であり、適切に処理してほしい」と要請した。

李前総統は、この時日本の政府や外務省を困らせてまで無理やり訪日することを避けたいと考えていたと言われている。李前総統は、ビザの申請を取りやめた。11月、李前総統は心臓冠状動脈狭窄症を治療する手術を受けたが、来日の夢が絶たれたショックもあったのだろうか。

心ある日本人の奮起

この李登輝前総統の訪日断念は、心ある日本人に更なる奮起を促さずにはいなかった。当社が制作した映画『新台湾と日本』の上映も各地で展開された。また、台湾問題の講演会も数多く開催され、映画にも出演している黄文雄氏や蔡焜燦氏らが各地で招かれた。

そのような中、平成13年1月27日には、李登輝前総統が母校コーネル大学を訪問するため、5月に米国を訪問することか明らかになった。中国との融和政策を取ったクリントン政権でさえも、私人としてならば李氏の入国を受け入れる意向であったといわれているが、ブッシュ新政権はより積極的にビザを発給する方針であるという。この訪米が実現すれば、その帰路に日本へ立ち寄ることも可能かもしれない。実際、李氏はそのような予定を立てていた。
心ある日本人は「今度こそ」、そう強く心に思った。 2月末には、台湾で小林よしのり氏の『台湾論』の中国語版が発売され、これに登場する蔡焜燦氏や許文龍氏が、台湾の統一派(大陸との統一を望むグループ)からの激しい攻撃を受けたり、更には、日本で出版されている蔡焜燦氏の著書『台湾人と日本精神』が突如絶版にされるなどの事件も起きたが、日本・台湾の友好を精力的に進めてきた団体は、団結して、李登輝前総統の訪日の機運を大いに盛り上げたのであった。

訪日実現の経緯

4月に入ると、米国訪問の帰路に日本へ立ち寄りたい、と李前総統側から非公式に打診してきたことが明らかとなった。衛藤征士郎外務副大臣は、4月5日の記者会見で、「具体的な打診があれば(中国の意志とは関わりなく)主体的に判断する」と発言。10日正午前、李前総統は、代理人を通じて訪日のための査証(ビザ)申請書を交流協会台北事務所(事実上の駐台日本大使館)へ提出した。それも、当初の訪米の帰途の訪日という計画を変更し、訪米前の今月下旬にしたい、との申し入れである。ビザ申請書類と共に、前年11月に李氏が台湾大学病院で心臓の冠状動脈狭窄のカテーテル治療を受けた際に立ち会った倉敷中央病院の光藤和明医師(同医療法の世界的権威)による「必要な再検査の期限が迫っている」「今月24日に検査・治療を行う準備ができている」との意見書が提出された。

しかし、交流協会台北事務所は、「書類は提出されたが受理していない」とし、ビザ申請の事実を隠蔽しようとした。同日中国外務省報道官は、定例記者会見で、「われわれは李登輝がいかなる名目や形式で、世界のどこに出かけて中国の分裂活動を行うことにも断固反対する」と述べた。
11日、福田内閣官房長官は、記者会見で「交流協会に確認したところ、ビザの申請および受理はないということだ」と説明。一方衛藤外務副大臣は、「ビザ書類一式は交流協会事務所に預かっている」とし、早急にビザ発給を決断するように電話で進言した。しかし、ビザ発給の決定は一向に行われなかった。これに対して、在日台湾同郷会、台湾研究フォーラムが外務省前での座り込みを決行するなど、抗議行動が相次いだ。
河野外相は13日、李氏側から正式なビザの申請はないとの見解を改めて表明した。自民党内や、閣議後の閣僚懇談会でも批判が続出し、早急にビザを発給するよう申し入れたが、河野外相は慎重な姿勢を崩さなかった。

日本政府の煮え切らぬ対応に、15日、李前総統は怒りを露にした。記者会見を開き、「日本政府はウソをついている」「今月10日に交流協会台北事務所で提出したが、その中には私のパスポートも入っている」と述べた。日本政府に迷惑をかけることに、かつてあれほど気を遣った李前総統が、日本政府を「ウソつき」呼ばわりしたのである。 18日には、公明党も党としての意見集約を断念。同日、ついに政府は「医療目的に限定」「政治活動をしないこと」を条件にビザ発給の方針を固め、翌20日、ビザ発給を正式に決定した。これに対し、李氏は謝意を表明した。

22日、李前総統は予定通り来日。人々は歓迎の準備も整わぬまま、関西国際空港へ駆けつけた。しかし、李氏の通るルートも不明のうえ、飛行機の時間が変更になり、空港での歓迎に参加することができたのは約400名ほどであった。実際に、日本人が李前総統を迎える気持ちはこの何百、何千倍も大きかったことは付言しておく必要があるだろう。
李氏がその日宿泊した大阪の帝国ホテルにも、多くの人々が集まった。歓迎の祝賀会の途中で、李前総統はわざわざ部屋の外に出て、これらの人々に手を振った。たちまち「台湾万歳」の声が起こり、「日の丸」や在日台湾同郷会の旗が振られた。 ここで特筆すべきは、日本人が「台湾万歳」を叫ぶと、台湾人は「日本万歳」を叫んだことである。「日本万歳」は、李前総統の前で幾度も唱和されたのであった。甚だ不十分な形であるにしろ、李前総統の来日が実現したことの意味の大きさを、この「日本万歳」は物語っているのである。

台湾独立の胎動(3)へ 台湾独立の胎動(5)へ