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台湾独立の胎動(2)

台湾独立の胎動(2) 台湾独立と日本精神

六十五歳以上の台湾人はみんな親日

「65歳以上の台湾人はみんな親日ですよ」

台北の日本料理店で、刺し身を食べながら楊克智氏がそうおっしゃった。
台湾に日本料理店は多い。これらは日本企業の駐在員のためのものではなく、多くは台湾人が利用するための店であるという。楊氏の説明によれば、「台湾風日本料理」である。 基督復臨安息日会の長老・楊克智氏は、作家の故司馬遼太郎氏の友人である。楊氏は、第二次世界大戦末期に大阪外語学校(現大阪外大)で司馬氏と同窓であり、司馬氏の『台湾紀行』(朝日文庫)にもしばしば登場する。
氏にお会いした最大の目的は、陳水扁総統とのインタビューを確実に実現するためである。既に、我々は台湾の駐日代表処へも取材の申請を行い、また『台湾紀行』に謎の案内人「老台北」として登場される蔡焜燦氏にもその仲介を依頼していた。しかし、6月末の時点では、取材実現のはっきりした感触をまだ得ていなかったのである。
我々の話をしばらく黙って聞いておられた楊氏は、「努力はするが、余り期待はしないように」と返事をされ、続いて次のような話をされた。

「台湾は、日本にとって地政学上とても重要なところです。ここを、他の国に押さえられたら、日本への物資の輸送は止まってしまいますよ。そのことを日本の人たちにわかってほしいんです。
私たちは、別に日本人に大陸の悪口を言ってくれというのではないんですよ。台湾を一人前に扱ってほしいんです」

誠実で物静かな雰囲気の楊氏が、急に堰を切ったように能弁になられた。とても流暢な日本語で、次々と話が展開する。今度は我々が黙って聞く番である。

「今、65歳以上の台湾人はすべて親日です。でも、それ以降の世代は(国民党の)教育のせいでおかしくなっている。もう時間がないですよ。私たちの世代がいなくなった後は本当に手遅れなんです」

楊克智氏の、台湾の現状への憂いと同時に、日本に対する強い思いを感じた。自らの世代には日本との特別な絆があると自負されているのである。一通りの話が終わると元の温和な楊氏に戻っていた。

「いやぁ、気を悪くしたのでしたらすみません。日本の方にはどうしても知って頂きたくて、つい話をしてしまいました。」

日本の敗戦に涙した台湾人

李登輝氏をはじめ、65歳以上の台湾人は、日本統治時代、それも最も苦しい戦争の時代に青春を過ごした人々である。そして、この人々は、その後自らの意思とは全く関わりなく日本国民としての国籍を剥奪され、蒋介石の中華民国へ放り出されたが、今なお親日家として、日本時代への憧憬や日本への期待を強く持ち続けているのである。
多くの台湾人は、昭和20年の終戦を喜んだが、中にはこれを「悔しかった」と言う人もいる。奇美発展文化事業有限公司に勤める石榮堯氏は、その一人である。石氏は、17歳で高雄にあった第61航空廠工員養成所第2期生へ志願し、発動機部へ配属された。工員養成所の学生の身分は軍属であった。

「中学の入学試験があるその前、要するに前年の12月なんですが4年制の工員養成所の募集があります。200名の募集なんですが2000名もの人が応募してくるんです。合格した人は中学校の試験に合格しても中学校には行きません。養成所を卒業すると高校の資格が取れるし、何より国のためになるからです」

当時の中学校と言えば、内地でも難関で進学する人が少なかったが、養成所は中学校よりもはるかに人気が高かったというのである。しかも、石氏はその頃を「一番楽しかった」と言われる。

「養成所の基礎訓練は厳しかったです。目をつぶって鏨を打つ訓練をするんです。当時台湾でも敵の空襲がありましたから、灯火管制の下で作業が出来る技術を身に付けなければなりませんでした。指は血だらけですよ。 食事は、海軍食で朝は底に少ししかご飯がなくて、昼は半分位、夜は山盛りでした。食事については、丁度食べ盛りの頃だったので辛かったですけど、あの時は楽しかったですよ。本当に。 そして、昭和20年の玉音放送を聞いた時には本当に悔しかったです。みんな涙を流しました」

「終戦」を悔やしかったと述懐する台湾人がもう一人いる。葉子成氏である。
現在、旧日本海軍の台湾人軍人軍属でつくる中日海交協会理事長を務める葉氏は、昭和18年、18歳の時に海軍特別志願兵に志願、訓練の後台中航空隊の海軍施設部へ配属された。

「私は海軍に必要な木材、針金、釘、セメントなどの倉庫を管理しておったのです。P38やB29がフィリピンから爆撃に来ていましたが、近くの陣地にいた高射砲隊がこれを攻撃して、B29を撃墜したのを見たことがあります。また、台中航空隊からは特攻隊も出ました。整列して万歳万歳と見送りました。みんな一生懸命で、軍人軍属も同じ訓練を受けて、機会があったら、敵陣に特攻隊として飛行機に乗っていこう、そういう精神でいました。これは、その時の若い者だけではなく、付近の村のおじさんでも“そうか、立派な日本精神だ”と思うような、みんなが持っている気持ちでした」

正に、本土出身の日本人も顔負けの、烈烈たる「日本精神」である。しかし、その葉氏も昭和20年、日本の敗戦に直面する。

「終戦のときは、集合して天皇陛下の放送を聞いて涙を流しました。台湾人もみんな泣きました。今考えてみると当時の時代の精神は立派です」

しかも、葉氏は「祖国復帰」を喜ぶどころか、中国人になんかなりたくなかった、と言われる。

「終戦前に、敵の飛行機が来て撒いたビラに、”中国を台湾に返す”と書いてありましたが、誰も中国人になりたいと思いませんでした。だから、戦後国民党軍が基隆港に来ても私たちは歓迎になんか行きません。台湾で文化協会といって日本の政策を批判していた人達は歓迎に行ったみたいですけど、この人たちはみんな二・二八事件でやられましたよ」

葉氏は、何事もなかったようにサラリと述べられた。