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エルトゥールル号殉難将兵が結ぶ真心の絆

24年後の真実

エルトゥールル号事件以上に、日本人として記憶しなくてはならないのは、昭和60年、空爆の始まったテヘランに取り残され、絶望の淵に立たされた日本人215人が、トルコ航空機によって助けられたことである。

当時、私は中学生であったけれども、残された日本人はどうなってしまうのだろうかとハラハラしたことを、今は、はっきりと思い出す。「陸路で山賊に襲われる」記事の衝撃は大きく、子供ながらに当事者の不安を共有していた。

それでも、24年の時が過ぎ、そんな事は全く忘れてしまい、思い出すことはなかった。

聞けば、トルコ航空はただ助けてくれたのではなかった。オザル首相は、撃墜のおそれや政治的なリスクを引き受けて、他国民の救出を決断した。救援機はDC10。トルコ航空が所有するもっとも大きな機体を、日本人の為にやりくりしてくれたのだ。代わりに600人ものトルコ人が、治安の悪い陸路で3日もかかってイランから脱出していたことに、どれだけの日本人が思いを致すことができるだろうか。

トルコ機のパイロットも乗務員も、皆この任務を誇りに思っていた。それに「人助けは進んで行うものであり、当然のことをしたまで」というマインドは、エルトゥールル号の遭難者を救助した大島の島民たちと同じだったのである。

トルコ航空による救出事件は、エルトゥールル号事件とは無関係と主張する人もいるが、心情を辿ると全くの一致を見る。やはりエルトゥールル号事件に遡るとしかいいようがないのである。

百年後の日本人に

とっさの行動は、理屈よりも精神や価値観が働くものだ。社会の受け止め方をみれば、その精神とは当事者固有のものだけではなく、熟成されたエートスが作用していることに気付く。

この時代にゆきわたり共有されていた精神を、百年後の日本人の心に宿すことができるだろうか。その為に、次世代に伝える努力は欠かせない。折に触れ繰り返し語り継ぐべき記憶なのである。

2010年、一年間にわたり日本・トルコ友好百二十周年記念事業が両国各地で行われた。トルコ 世界一の親日国年初出版した明成社のトルコ 世界一の親日国』(森永堯/著)は、幾ばくでもその役割を果たしえたのではないかと思っている。

串本町では予算を計上し、日本・トルコ合作映画の制作を始めている。海底に沈むエルトゥールル号遺品引き揚げプロジェクトは、その役割を買って出たトルコ人と、地元ダイバーの人たちの協力によって進められた。

まごころから動き出した人々は、自らにできることを問い、伝えようと努力している。トルコ航空機で助けられた日本人乗客の中には、トルコ地震の際に義捐金を贈ったり、串本のご先祖のおかげと、串本町へふるさと納税を申し出た人もいる。

カマン・カレホユック遺跡

7月10日、トルコ共和国アナトリア高原に、カマン・カレホユック考古学博物館がオープンした。この日、式典に列席した人は1000人以上、周辺に集った人は約3000人。チャウルカン村始まって以来の大賑わいという。大村所長によると、地元カマンの農民や若者が総出で式典運営に参加しており、地元と一体となって取り組んできた研究所のスタイルが反映されているそうだ。

日本から、寬仁親王殿下、彬子女王殿下をはじめ、阿部中近東文化センター所長、田中大使など百名以上、トルコ側は、ギュナイ文化大臣はじめ多くの要人が参列し、オープンを祝った。大統領府オーケストラの記念演奏の後、テープカットとなった。この時、両殿下と大臣の周りには、制御できそうにもない数のマスコミが集まっていた。その後1ヶ月で7千人が博物館を訪ねてきたという。

カマンの町には、Prens Mikasa Caddesi(三笠宮通り)がある。1986年、カマン・カレホユック遺跡の鍬入れ式にご訪問になるなど、発掘調査に尽力されている三笠宮殿下に感謝の意を込め名づけられたもので、住民の生活の中心になっている唯一のメインストリートである。

以前、カマンで式典が開かれた時のこと。カマンは土漠の高原で強風が吹き付ける。参加者はとても立っていられなかったそうだ。そんな中、三笠宮殿下は吹きすさぶ砂塵をものともされず直立不動を保たれており、そのお姿に敬服しきりだったと聞いた。

隣接する「三笠宮公園」は、ヨーロッパでも有数の広さを誇る日本庭園で、年間2万人の観光客が訪れる。

ヒッタイトの謎を秘めたカマン・カレホユック遺跡は、20年前から中近東文化センターアナトリア考古学研究所の大村幸弘所長を中心に発掘調査が進められ、アナトリア考古学における「暗黒時代(Dark Age)」の解明に挑もうとしている。

発掘成果は、発掘権を取得した者が占有するのが通例で、発掘隊が何を重視するかによって、研究価値がないとみなせば、重要な発掘物も打ち捨てられてしまう例もあるという。現地にしてみれば、文化財の収奪行為と見られるケースも往々にしてあるそうだ。

カマン・カレホユック考古学研究所は、現地に根ざした運営を行い、価値ある遺跡を自分達だけのものにするのではなく、現地で分析し、保管・展示することで、他の研究者も広く利用できるようにし、世界中の研究者が集い、議論していくことで研究成果を高め合おうとしている。

歴史を変えるこの事業に賛同された寬仁親王殿下は、10年にわたって建設募金活動を推進された。

「発掘はまだまだ百年は続く」そうである。寬仁殿下から渡された金一封を、大村氏らは飲んでしまわず、地元の人々の奨学資金「三笠スカラシップ」とした。その心意気に、今後も国民の支援と声援を贈りたい。

トルコ 世界一の親日国海難1890